箱根駅伝も終わり、まだ残っている高校サッカーの県勢を応援しようと思ったら、すぐに敗退…
優勝候補が次々と敗退していたので、今年はチャンスだと思ったんですが…
同じ運命を辿ってしまいました。
サッカー王国と言われてきた静岡の復権は未だにならず。
危機意識が強まってはいるんですが、なかなか結果に結びつかないのが歯がゆくもあり…
安易にこういうこと書くのもアレですが、来年に期待することにしますデス。
◆ニュースネタから 「在る」ということ
一般のニュースでは歯科医師の家の遺体切断事件が話題になっているようで。
犯人の兄の気持ちも分からなくもないですが、それで殺すのもなぁと。
例え相手がどんなクズだとしても、殺しちゃいかんですよ、殺しちゃ。
(今回の事件のことを言っているのではないので注意(^^;)
事件の背景にあるものを考えた時、
他人に自分の考えを押し付けあう家族関係ってのは、疲れるだけだろうな~と思ったり。
今が全てでもなければ、将来が全てでもなし。
ただ後悔をしないよう、他人を羨んで生きないよう、卑屈に考えないよう、
自分の人生に自信と責任を持って生きたいもんです。
事件を起こした兄の気持ちに立って考えた時、
彼が家族として認められるためには、歯科医師になるしかなかったのではないかと考えられます。
でもこの考え方自体に一つの違和感があります。
何故、「家族として認められる理由が必要なのか」ということです。
何だか今の時代はこうやって「理由」や「言い訳」を必要とする時代のように感じます。
家族である「理由」、友達である「理由」… 誰もが理由を要求しているように思えるのです。
一昔前なら、「家族だから」「友達だから」で片付いたはずなんですよ。それが真理ですから。
けれど今回の事件やイジメ問題を見ていると、
「家族」「友達」であることの理由を求めているのではないか、そう思えます。
それは人と人の絆が薄れているだとか言われますが、本当にそうなのかなぁと。
そもそも絆なんて目に見えないし、測りにかけられないもの、
そんなのに薄れているもクソもないでしょう(笑)
それも単に理由を求めているだけなのかもしれません。
なんというか、現代の私達に欠けているものはまさしくそれなのではないかと。
ただ「ある(在る)」ことを感じる心、それが決定的に欠けているように思えるのです。
家族であることの理由を考えると、血縁関係や生活空間が一緒であることが挙げられますが、
それじゃ血縁関係があれば必ず一緒に生活しなければならないかというとそうでもないですし、
必ずしも適切な答えだとは思えません。
自分なりに答えを出すと、一緒に生活する(→在る)ことを許せる、ということです。
家族の中で嫌っているということはあるでしょうが、
少なくともその存在を許しているからこそ家族は成立しているわけで、
存在を許さなければ今回の事件のように誰かが消されることに(^^;
友達関係でも一緒。打算的なものもありますが、友達であることにさして理由はありません。
互いにその存在を許している、相手の存在を感じているからこそ、友達であるのです。
勿論、結婚のように家族になることに理由を要する場面もあります。
友達付き合いを続けるか悩むような時、理由を求めることがあります。
また人生を味わい深いものにするために、生きることに理由を求めることもあります。
でもそれらは絶対に必要なものでもありません。
結婚する時には理由以前に相手の存在認めていなければできませんし、
人生の場合には理由がなければ死んでしまうということもありません。
理由を求めることが間違っているわけではありませんし、
そのありがたみを感じる時に必要不可欠な考え方ですし、
それぞれの存在理由というものがあるのかもしれません。
けれどそれらが一瞬で分かるほど人間は賢くありません。
目の前にある事物の存在理由を理解できますか? できませんよ(^^;
私達人間がそれぞれの存在理由を理解するためには、在ることを感じなければ理解できません。
人間にとって大切なのは、「在ることを感じる心」です。
うーん、上手く説明できてないですねぇ(苦笑) 毎度のことですが(爆)
家族として認められるために「歯科医を目指す」、
恋人として認められるために「カッコよくなる」「美しくなる」、
友達として認められるために「何か特技を持つ」、
そうやって努力することは良いことだと思います。
だけどそれらが失敗したら、『自動的に』家族・恋人・友達でなくなるかといえば、そうではないでしょう。
家族・恋人・友達という状態は自分や他人がどう思おうと、『とりあえず』そこに「在る」わけです。
しかし私達はなかなかその「在る」状態を感じ取ることができず、
絶えずそう在るための理由を求めています。
それが正常な時は何も問題ありませんが、捻じ曲がってしまった時、
「歯科医を目指さなければ、家族として認められない」と脅迫観念のように重圧がかかるような時、
今回の殺人事件や、イジメ・セクハラ・パワハラといったような事件が起こるのだと思います。
相手に自分の存在理由を誇示することで、自分の存在を認めさせたい、
相手の存在理由を貶めることで、自分の存在を認めさせたい…
物事の全てに理由を求める行為の歪みが、こういった事件を呼び込んでいるように思えるのです。
上の文章で『自動的に』『とりあえず』としたのは、
理由を求める行為の結果、その関係を自分の意思で破綻させていることを示すためです。
何故、「在る」ことを「在る」と感じ取れないのか、
わざわざ「在る」と認めようとするのか、「在る」と認められないのか、
どうして「在る」ことを無理矢理にでも否定しようとするのか。
例え自分・他人が「在る」理由を見いだせなくても、現にそこに「在る」ことが理由なのです。
私達が知らない理由、私達には理解できない理由があることを理解せねばなりません。
ただ「在る」ことを感じる心、
自分が、他人が、自然が、物が、事が「在る」ことを感じ取る心、
それを今の私達は忘れつつあるように思うのです。
なーんか、禅問答チックになっちゃいましたなぁ(苦笑)
私達に足りないのは知識ではなく、感性ということです。
雄大な自然を前にして「在った」ことを「在る」と感じ取るように、
絵画や音楽に触れることで「無かった」ものを「在る」と感じ取るように、
「在る」と感じ取る心を養うことが何よりも大切だと思います。
再三言っているように、私達の人生・生活を豊かにしていくためには、
教育や知識によって、「在る」理由を見つけていくことも必要でしょう。
だけどそれをする前提となる「在る」ことを感じ取る力が欠けていては話になりません。
ニュートンがリンゴが落下することを感じ取り、万有引力の法則を発見したように、
私達もそれぞれのものが「在る」ことを感じ取ることが必要だと考えます。
あー… 結局、上手く文章にならなかったなぁ…
すいません、今回は時間切れでここまでということで(爆)
次に書く時は上手く書けるといいなぁ(^^;
◆プロ野球 そういえば…
本当は長々と熱く語ろうかと思いましたが、なんとなくそんな気分ではなくなったのでパス(爆)
そういえば、韓国球界が求めていたWBCの決着はどうなったんでしょうかね。
結局、流れちゃったのかなぁ…
こういう状況を見ていると、私はまだ日本球界の危機意識が低いように思います。
選手会はブーブー言ってますが、私はサッカーのように国際親善試合をもっと増やすべきだと考えます。
オフは体のケアに専念したいと言う主力選手やベテランはどうでもいいんです。
レギュラーに定着できない半1軍クラス、将来を期待される若手選手、
そういった将来の球界を背負う存在でチームを作り、強化していく気がないのかと、そう思うわけです。
それこそ話題になっている北京五輪のメンバーを考えた時、
今の日本プロ野球界の主力選手でどれだけ戦えるのか。
当然、メジャーリーグは五輪への選手派遣を許さないでしょうから、
松坂投手は当然参加できないでしょう。今日本にいるメンバーだけです。
さらにそこからFA等で来年メジャーリーグに行く選手を考えると、
どれだけのメンバーが残るか分かりません。
このままでは本当にメンバーを組むだけで一苦労になってしまいます。
北京五輪で良いメンバーを組むためには、もっと長期的に考えないとなりません。
(といっても、あと2年なんで手遅れとも言いますが(苦笑)
今後もこういった選手のメジャー流出が考えられるわけですし、
もっと球界全体で若手選手を育てる環境、スターを生み出す状況を作り出すべきだと考えます。
ハワイウィンターリーグが再開され、多くの若手日本人選手が参加しました。
これは一つの良い傾向でしょうがが、まだまだ足らないと思えます。
新たなスターを生むためにも、野球の国際化を図るためにも、
もっと日本のプロ野球界は国際親善試合に積極的になっていいと思います。
採算性など課題は多いでしょうが、
選手が去っても次々と新しいスターが出てくるような魅力的なプロ野球界を作っていって貰いたいです。