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再考のオリンピックと再興のパラリンピック

選手・関係者に感染者を出しつつも、なんとか終わった東京オリンピックですが…
やはり、前も書いたように、自分は一切見ませんでしたし、
ニュースを見ても何も感じる所はありませんでした。
まぁ、いわゆる『スポーツの力』なんてものは最初からなかったんだな、と。
贔屓チームが勝とうが、優勝しようが、誰かが金メダルを取ろうが、
自分の人生に影響することは一切なく、何も関係してきません。
ただ、それだけの事実に過ぎません。

そんな『スポーツの力』が崩壊した理由は3つ考えられます。
一つは「模倣不可能性」=単純にコロナ禍で庶民はスポーツができないこと、
二つ目は「庶民ヒーロー像の崩壊」=近年のスポーツエリート化のこと、
三つ目が「スポーツの持つ先進性の崩壊」=コロナ禍でスポーツ自体が行き詰まっていること、です。

最初に「模倣不可能性」です。
まず、前提として、自分はスポーツは「するもの」だと考えています。
「見るもの」ではありません。
自分のしたことがないスポーツを見る時も、体の動きなど参考になるものはないか、
自分がそのスポーツをした時にどんな動きをするのか、そういうことを考えながら見ます。
ただ、中にはイケメンだからとか、股間アップの映像ばかりを撮る人もいるなど、
「見る」こと自体を愉しむ人もいます。
後者を否定するつもりはありませんが、本人に迷惑かけないようにして欲しい所ではあります。
その上でスポーツを「するもの」という観点から言えば、魅力的な競技を見たとすれば、
それを「やってみたい」と思うのが自然なことではあるのですが、
現在はコロナ禍でスポーツが百害あって一利なしと考えられており、自粛状態です。
つまり、庶民はやりたくてもスポーツができない。
一方で五輪選手やプロ選手はスポーツを堂々とすることができる。このギャップです。
スポーツが環境的にすることができないのに、スポーツを見る意味があるのか否か?
これがスポーツ観戦する上での根本的な問いです。

次に「庶民ヒーロー像の崩壊」です。
かつて日本のスポーツと言えば、小学校のクラブや子供会から始まり、
底辺の広いスポーツ人口が支えられ、「おらが村のヒーロー」みたいな所がありました。
しかし、スポーツ界が一定の地位を占めるようになると、エリート化が進み、
幼少期からそのスポーツに集中するなど、トップアスリートの低年齢化が進んでいます。
テニスやボード競技などが典型的な例でしょう。
親が子どもに集中的に取り組める環境を与えないと、
トップアスリートになれないわけです。
ですから、かつてあったような母子家庭のサクセスストーリーは崩れ去り、
経済的裕福さがスポーツの成功を決めてしまう状況になってしまっているわけです。
そうなると、どうしても同胞意識が薄くなってしまいます。
同じ競技をやっていてライバルチームに居たとかなら親近感も湧きますが、
海外でガンガン大会に出ている選手に同じ思いを抱くのは不可能です。
つまり、スポーツ界そのものがエリート化しており、
庶民のスポーツと隔絶され、同胞意識が保てなくなっていると言えます。

最後に「スポーツの持つ先進性の崩壊」です。
昨年なんかはマスクをして柔道をするなど、コロナ禍に対応した動きもありましたが、
蓋を開けてみれば、コロナ前となんら変わらない光景がそこにありました。
スポーツ中の感染について確かな情報が何もないのにもかかわらず、
試合中の感染症対策はまるでないという状況でした。
接触プレーを禁じるなど、色々とやり方はあったはずです。
でも、何もしなかった。スポーツはコロナ禍に対応できなかったわけです。
スポーツはやはり「先を行くこと=先進性が重要です。
それにも関わらず、従来のやり方に固執し、スポーツの可能性を狭める様は、
それとは真逆の伝統的価値観にしがみつく「みっともなさ」が現れていました。
例えば、コロナ禍ということで接触プレーを禁じることができたならば、
体格差を考慮する必要がなくなり、男女の壁を取っ払うことができるだけでなく、
障がいのある・なしに関わらず同じグラウンドに立てる日が来たかもしれません。
結局、体を鍛えたもの勝ち、体の大きさで勝負するパワー五輪を貫いたことで、
スポーツの可能性を大きく狭めたような気がしてなりません。

以上の3つが「スポーツの力」が失われた理由です。
誰でもでき、庶民的で、常に上を目指す「従来のスポーツ像」はもはや存在しません。
残されたのはただのエゴイスティック。
感染者が出ようが出まいがスポーツを続ける利己的な感情そのものです。
コロナ禍で不満の多い国民がスポーツを見れば元気づけられる?
そんなものは勝手な思い込みです。スポーツでコロナは治りません。
それはもう単なる「宗教」ですよ。そう信じているだけ。
「スポーツ」という「宗教」が崩壊する様を見たのが今回の東京五輪だったように思います。


でも、自分は逆にパラリンピックには期待しているんです。
そもそも上記の3つの理由がパラリンピックには存在してませんからね。
障がい者が車椅子等の現代技術を使って競技を行い、
自分一人ではできなくて、介在者や器機の支援者が必ず必要であり、
障がい毎に競技を行えるようにルールを変更する柔軟さ、何一つ当てはまりません。
まさに従来のスポーツ像の真逆とも言える状況です。
障がい者スポーツは健常者からすれば、「するもの」ではなく「見るもの」でしょうし、
そこに従来のスポーツ像に囚われない新しい可能性を見い出せるのではないかと期待しています。

もっとも、それは障がい者スポーツからすれば、良いことではないかもしれません。
障がい者スポーツが最終的に目指すべき場所は「ノーマライゼーション」、
健常者と一緒にスポーツを行うことでしょうから、
障がい者が見世物のように取り扱われかねないことは、一長一短でもあります。
関わる人が健常者のスポーツよりも多いということで、
コロナ禍で開催するのはより難しい面もあるとは思いますが、
できることなら、この1~2週間で感染が終息に向かい、
無事にパラリンピックが開催されることを期待したいです。


◆ニュースネタ 東京五輪関係のニュース
●丸川五輪相「感染拡大の原因にはなっていない」五輪との因果関係を否定
だから静岡県内の第4波と今回の感染状況の違いを説明してみてくださいよ。
どう考えても伊豆で自転車競技の有観客試合を行ったためでしょう。
他に理由がありません。誰がそんな嘘を信じるんですか?

●《東京五輪閉会式直前》「これがおもてなしです」 関係者による“バブル崩壊”の現場をルポ!
まぁ、そもそも今回の「バブル」はアスリートを守るためのものではなく、
日本国民への説得材料としての「バブル」でしかありませんでしたから、
関係者にせがまれれば容易に「バブル」は破られていたのだろうと推察します。
外形だけですからね。中身はスカスカよ。それにしては本当によく持ったねぇ…

●【五輪検証2】穴はあった「バブル」それでも何となく無事に閉幕
本当に「何となく無事に」という表現がピッタリでしたね。
感染者がワクチン接種済みだったか否かは明らかになっておらず、
仮に接種済みだったとすれば、結構な確率のようにも思えますが…
アメリカ選手団でも1割程度は未接種だったそうですし、ラッキーだったというのが適切ですかね。
それでも陽性になったり、健康上の問題で競技を断念した選手がいるのも間違いないわけで、
無事だったかどうかは評価の分かれる所だと思います。

五輪とは関係ありませんが、中日・木下投手がワクチン接種後に死亡した例など、
IOCがワクチン接種と運動の研究をしっかりしておけば防げたとも言えるわけで、
ワクチン接種を推奨していたIOCがどこまで事態を把握していたのかは気になる所です。
アスリートにワクチン接種後の死亡例が出なかったのも単なるラッキーなんですかね?

●アメリカは東京五輪をどう総括したか。主要メディアはIOCを「非民主的」「詐欺以上」と批判
IOCとしてはテレビ放映権に問題が生じなかったことで万々歳なんでしょうが、
日本はチケットの払い戻しを始めとして、莫大な赤字を抱えることになるわけで…
各国の選手団の帰国後の感染状況も気になります。
予想された「東京ウイルス」と揶揄されるような事態になるのかどうか。
これは注視していかなければなりません。
アメリカが中国に責任転嫁したように、
自国の感染悪化を東京五輪のせいにする国は必ず出てくるでしょうからね…
本当なのか、そうでないのか、それは気になるところです。

●東京五輪の関係者が「殺人的暑さでもアスリートなら大丈夫」と考えてしまう根本原因
スポーツになると根性主義になるところは確かにあります。
それも完全にゼロ戦特攻の自滅主義でしかないんですけどね…
心のどこかで「死に場所を探している」的な風潮が、
常にスポーツを非合理的なものに押し下げているように思えてなりません。
甲子園大会も勝つことよりも、いかに華々しく負けるかに注意が行き過ぎてる気がします。

まぁ、しかし、せっかく時期を遅らせたのなら、お盆明けの開幕で良かったのでは?
例年、15日以降に涼しくなることが多く、お盆明けなら十分対策できる暑さです。
まぁ、お盆を挟んで梅雨に舞い戻る天気になるようなので、
順延を重ねた結果、盆明け以降になる可能性は十分にありますが。
最近は8月後半に豪雨になることも多いだけに、天候はやはり心配ですね…


【8月13日追記分】
◆ニュースネタ メンタリストDaiGo“差別”発言「命は平等っていうけど優劣はある」
テレビで見ている限りだと、あまり良い印象を持ったことはないです…
まぁ、そういうことを言いそうだなぁと思わなくもないです(←失礼)

別に「主観」として、見知らぬ他人よりも知っている家族を優先するのは分かります。
そうやって生きることは誰も否定しません。
弁明内容自体は誰にでも分かりますし、もうそれは生き方の問題です。

ただ、それを「客観」としてしまえば、差別にしかなりません。
つまり、「みんな思わない? どちらかといえば、いない方が良くない?」がアウトです。
同意を求めていますから、それは「主観」に留まらず「客観」にしちゃっています。
これは完全にアウトですね。
同意を求められ、「ああそうだな差別して良いんだな」と思わせてしまえば扇動に外なりません。
加えて、それを『メンタリスト』という心に携わる職業の人がやってしまえば、
もはやそれは「洗脳」以外のなにものでもありません。
そんな「洗脳」まがいのことをする人がテレビに出ても拒否反応を示すのは当たり前。
自分の過ちを早急に認め、謝罪しないことには、この問題は尾を引くように思えます。

そもそも、『メンタリスト』って何ぞや?と思わなくもないのですが、
ただでさえグレーゾーンで怪しかったものが、
これで完全なる怪しい人物に成り下がってしまったのは残念でなりません。
まぁ、本質はそっちなんでしょうし、化けの皮が剥がれただけなんでしょうけど…
職業として確立しているのかどうか知りませんが、
これで『メンタリスト』なる者は駆逐されかねない、それだけの発言でしょうね。
何を吹き込まれるのか分かったものじゃない、ってことになっちゃいますよ…

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