« 地獄の自民党政権 | メイン | 東京五輪は中止になるのか? »

DL違法化=個人のアーカイブ化の禁止

新型コロナウイルスでひぃひぃ言っている時に、
昨年見送られたダウンロード違法化が再び閣議決定されて再登場するようで…
こちら
結局、スクショも禁止しちゃうんですね…

昨年の批判を受けて、「全体として軽微なもの」、「一部が写り込んだスクショ」、
「二次創作物」、「著作権者の利益を不当に害しない特別な事情がある場合」は、
違法にならないと除外したようですが…
法律効果としては全くの無意味と言わざるを得ません。


仮に条文が、「原則ダウンロードは禁止。ただし、全体として軽微なもの、一部が写り込んだスクショ、
二次創作物、著作権者の利益を不当に害しない特別な事情がある場合は、違法にならない」であった場合、
法律論的には原則禁止、例外として違法にならないと解釈されます。
その意味は、「例外に当たることを証明できなければ、違法になる」ということです。
つまり、証明する責任は著作権侵害者側にあることになり、
裁判で証明できなければ有罪になるということです。

これが本文で予め例外規定されていれば、話は違ってきます。
「全体として軽微なもの~特別な事情がある場合を除き、ダウンロードは禁止」であった場合、
証明責任は検察なり著作権管理団体なりの訴える側になります。

例外規定が本文にあるか、但し書きであるか、でこれだけ法解釈が違ってくるわけです。
ちょっとした条文の違いだけでも、もたらす法律効果は全く異なり、
普通の人は例外に当たることを裁判で証明することは非常に難しいわけですから、
必然的に原則の通りに行動しようとします。
つまり、リスクを回避するために、ダウンロードは禁止せざるを得なくなるわけです。


個別具体的に考えていきますと、「全体として軽微であるか否か」をどう判断するのか?
1コマのみならばOKなのか、数コマはOKなのか、1ページ丸々はOKなのか?
週刊漫画雑誌に掲載されている漫画1作品は軽微に思えませんが、
同じ分量でもコミックスの1話分だけなら軽微にも思えます。
具体的な違法ラインが分かりません。
「一部が写り込んだスクショ」は表紙等が部屋の写真に写った場合の想定でしょうが、
では見開きの1ページを開いて映した場合はどうなるのか。
「二次創作物」は禁止とされましたが、二次創作物であるか否かをどう判断すればいいのか。
ダウンロードしたものが原作なのか、二次創作物なのかを正確に判断できるのでしょうか。
また、エロマンガとかに多いのですが、「原作に似たキャラ」、
風貌は似ているのに、名前が違う場合は二次創作なのか原作なのか、微妙な所もあります。
最後の「特別な事情」は著作者が一部の著作隣接権を持たない場合
(出版社が販売している場合の売り上げ等)に、個人的販売促進行為をしたぐらいしか、
想定できないので、多くの人々にとっては該当しないと考えるべきでしょう。

個別に考えていくと、例外規定が不当に狭く解釈される可能性があります。
例えば、画像アップロード板みたいな所で画像を探していたら、
二次創作物ではなく、原作の画像が表示されれば、そのページを開いた瞬間にアウト。
掲載論文をネット環境のない所で見るために、自分のPCに保存したらアウト。
図書館の資料の一部を印刷しようとしてもアウト。
面白いネット動画を見つけたので、保存して後でゆっくり見ようと思ってもアウト。
AbemaTVの動画をWindowsのゲームモードで録画する行為もたぶんアウト。

つまり、原則禁止の行きつく先は、個人のアーカイブ保存の禁止を意味します。
何かを保存する行為そのものが禁止されると思った方がいいです。
この考え方に則れば、将来的にテレビ録画も禁止される可能性はあります。
見たい時にはアーカイブスにアクセスして、その場限りの視聴にしてください、的な。
個人でアーカイブを保存する行為そのものが否定されかねません。

ダウンロード違法化の問題点はそこにあります。
個人の保存行為ができなくなっちゃうわけです。
保存したければ、お金を出して現物をその都度に買ってね、という話。
今までは個人で利用する分には問題ないとされていた著作権のグレーゾーンが、
ほぼ全てブラックになってしまう可能性があります。


原則自由と原則禁止とは大きな違いです。
違法な利用を禁止することよりも、適正な利用を推進することの方が重要です。
単に個人的利用は認めても、商用利用を禁止すればいいだけのことを、
どうしてここまで複雑な事態にできるのか。
漫画村のような違法ダウンロードサイトを禁止したいのなら、
アップロードと広告料収入にメスを入れればいいこと。
法律違反のリスクを犯してまでアップロードするのは、別の利益があるためでしょ。
その利益を断てば良いだけの話をどうしてここまで複雑化できるのか、理解できません。


◆ニュースネタ センバツ甲子園大会の中止が決定
個人的には中止の決定が遅すぎた感があります。
前回の「無観客試合で実施の意向。11日に再判断」という玉虫色の決定が無駄でした。
これが「15日に再判断」もしくは「ひとまず延期。中止判断は20日に再判断」ならば、
感染状況が落ち着けば実施の可能性もあったんですが、11日では土台無理な話でした。
もっとも、前日の10日に安倍総理がイベントの自粛延期要請をしたことで、
延期さえもできなくなったわけですが…
いずれにせよ、無観客試合の公表から中止表明の11日まで、
大会出場校は部活動をやらざるを得なかったでしょうし、
無意味に感染のリスクを高めたという意味では、無責任な論外の決定だったと思います。
早期に中止判断ができなかった高野連は責められて然るべきでしょう。

安倍総理のイベント自粛と休校の要請、高野連のセンバツ中止決定にしてもそうなんですが、
どうして日本人は結果を示すだけで、過程を全く示さないのでしょうか?
決断が自己の判断に基づくものならば、必ずセーフとアウトの『基準』があるはず。
しかし、日本人はその『基準』を示そうとしません。
だから納得できなくなるんですよ。
どういう条件が揃った時に、イベントの自粛や休校を要請するのか、
逆にどういう条件が達成されれば、上記の要請が解除されるのか。
発動条件と解除条件の基準を示さないから、国民は混乱するんです。

センバツに話を戻しますと、どういう条件なら通常開催なのか、
どういう条件なら無観客試合なのか、それとも中止にせざるを得ないのか、
それを示さないから出場校は心の準備ができず、中止という憂き目に遭うんです。
予め条件を提示しておけば、混乱はなかったはずです。
そこが日本人の悪い所だと言えましょう。

どうして、日本人がそれらの『基準』を示さないのかと言えば、
責任を取りたくないからでしょう。
条件が曖昧なままに決定すれば、それを誰が決定したのか分かりません。
しかし、『基準』を示せば、責任者はその『基準』を定めたものになります。
組織の中で誰が責任者かを対外的に明示しないために、『基準』を隠すのでしょう。

実際に高野連がどういう『基準』で動いていたかは分かりませんが、
高校野球がプロスポーツとは異なり、学校教育の一環であることを考えれば、
休校措置に一定の目途が立つことが最低条件だったと思われます。
そうであるならば、休校措置から2週間経たない11日に間に合うことは不可能で、
当初から開催は絶望的だったと思われます。
高野連の言い訳じみた決定プロセスによって、
出場校の球児が多いに振り回されてしまったことは残念でなりません。
情けない大人ですよね…

救済措置に関して言えば、センバツ大会の性質上、それは難しい所でしょう。
各地区の1位校は確実に出場できますが、それ以外は選考に寄りますから、
選ばれたらラッキーの要素も持っているだけに、
救済措置を取るのも甲子園出場をギリギリ逃した学校との均衡を失します。
夏の大会の拡大策にしても、プロ野球の開幕順延で日程がタイトになった以上、
全てを甲子園で行うことは不可能でしょう。
そう考えると、甲子園球場には拘らず、4月上旬に順延して、
ベスト8以上の試合を甲子園で行い、それ以外は地方球場で行うなど、
柔軟に考えても良かったように思えますが…
良くも悪くも、甲子園球場への拘りが仇になっているように思えます。
大会が重要なのか、器が重要なのか。
後者への想いが強すぎて大会を破壊してる感があるんですよねぇ…最近の高校野球は。


◆ニュースネタ 新型肺炎をパンデミックに認定。緊急事態ではない?
うん? 新型インフルエンザ等対策特別法を改正するのは、
新型コロナウイルスを追加するためじゃないんですか?
つまり、緊急事態に認定できるように改正するのに、今は緊急事態ではない?
それなら、何で改正するの? 改正する必要性がなくなっちゃうじゃん。
それでは政府は今よりも状況が悪化するという見通しということなんでしょうか。
全然大丈夫じゃねぇじゃん…

この法案に関する野党の対応でひと悶着ありそうで…
こちら
まぁ、山尾氏の発言の方が正しいですね。
挙国一致で対応した方がいいという野党幹部クラスの気持ちも分かるものの、
論理的整合性は欠いていると言わざるを得ません。
憲法で保障された国民の人権を大幅に制限する法律を、
国会の事前報告で足りるとするのはあまりにも乱暴。
憲法改正程度の2/3以上の賛成を要求してもいいぐらい。
最低限、国会の議決は必要でしょう。

そもそも、新型コロナウイルスは法律の適用外という政府の言い分はおかしい。
そんなことでは、それに当てはまる病気なんて存在しなくなっちゃうじゃないですか。
加えて、何も総理大臣が緊急事態を宣言する必要は皆無で、
今回の対応でも北海道知事が「緊急事態」を宣言したように、
地域ごとに判断していく方が合理的というものでしょう。
感染症に対して国全体で画一的に要求する必要性はありません。
今のように「過剰な萎縮効果」になって、想定以上の経済被害が出るだけでしょう。
政府も政府ですが、そこに簡単に乗ってしまう野党も野党でしょう。
現状のままでも適用可能というスタンスを崩すべきではなかったように思えます。

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)