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日本人の『恐怖』の病巣

テレビを付けると、未だに大相撲・日馬富士関の暴行問題をやっていますが…
日馬富士関の「指導だった」という言い分に違和感を感じている人も多いでしょうが、
それを一蹴できない日本人の心には、やや闇があるのでは?と疑わざるを得ません。

「先輩を敬え」、当たり前のように使われているこの言葉は変です。
では、逆に「後輩は侮れ」とでも言うのでしょうか?
違いますよね。正解は「自分ではない『個人』だから敬われる」のです。
先輩だろうと、後輩だろうと、年上だろうと年下だろうと関係なく、
自分ではない、自分と同じ人間『個人』という存在だから敬われるべき、
それが西洋の人権感覚であり、「基本的人権の尊重」の意味です。

敢えて「他人を敬え」と当たり前のことを当たり前には言わずに、
「先輩を敬え」と限定して言うのは、やはり日本人の病巣だと考えます。
もっと正確に言うならば「先輩に従え」、従属であり、そこにあるのは支配です。
「年上」「先輩」に対する恐怖を後ろ盾として支配する構造が日本人の病巣の姿です。

変なんですよ、とにかく日本人は変。
・会社の先輩の言う事に従っていれば良い⇒結果として組織ぐるみの不正
・湾岸戦争でお金出したけど文句言われた⇒結果として自衛隊の海外出兵
・国防の要は在日米軍⇒結果としてアメリカに従っておけば良い外交
・ソ連は強い⇒アメリカと戦った方がマシ⇒結果として、広島と長崎に原爆
・開国は怖い⇒結果として、攘夷大失敗
変なんです。全然合理的な判断じゃないんですよ。
そこにあるのは間違いなく「恐怖」。
村八分の恐怖、原爆を始めとする最新鋭武器への恐怖、ノモンハン事件の恐怖等々。
「恐怖」によって思考停止して判断を誤る、日本人の陥りがちな病巣です。

日馬富士関の暴行事件に話を戻してみても、おかしいんですよ。
貴乃花親方や同門の先輩力士が「指導」と称して暴行したなら、まだ分かります
(それはそれで問題ありますが。過去にあった新弟子への暴行死亡事件など)。
共通項が同じモンゴル出身というだけの日馬富士関は指導する立場にありません。
身近な例で考えて欲しいのですが、
子どもの部活に直接面識のない有名大先輩OBがやって来て、偉そうに指導を始めた挙句、
それを自分の子どもが何となく苦々しく思っていると、
「お前生意気」と呼びつけられて子どもは殴られ頭部に怪我を負ってしまうも、
学校側はその有名大先輩OBの所に謝りに行けと言う…
既に廃部になった某宗教系野球部のように、現実にありえない話でもないでしょうが、
少なくともその親は怒りに震えることは間違いありません。
これはそういう話です。
それをおかしいと思えない辺りが日本の社会の「恐怖」構造に囚われている所以です。

さながら、今回の構図というのは「DV夫」なんですよ。
自分の要求が通らないと、暴力によって解決しようとして、恐怖によって支配するまで殴る。
殴った後は「指導」「教育」だったと、殴られた妻のためだと言う「DV夫」、それと同じ。
貴乃花バッシングで聞こえてきた「思い知らせてやらないと」というのは、
DV夫の典型的な心理、実に言いそうな言葉ですよ。
その言葉一つ一つが相撲協会の「DV夫」体質を如実に表していることに何故気づけないのか。
完全に思考停止している証拠です。

「恐怖」というのは、それだけで思考停止させられるものです。
思考停止していることが「恐怖」に屈している証、
体育会系的な「指導」に屈していた証拠だと言えましょう。
それを「間違っている!」と堂々と言わないまでも、思考停止せずに考えることが、
未だに日本を支配している「恐怖」の支配構造を抜け出す一歩のように思えます。


◆ニュースネタ NHK受信料は合憲。今の時代に公共放送の必要性はあるのか?
NHKの受信料請求を巡る最高裁判決が出ました。
受信料の発生に関してはほぼNHKの主張を丸呑みの形で、
「テレビの設置をもって受信料支払い義務」が生じるとする一方で、
具体的請求に関しては契約自由の原則を採用し、
「未払いの人には訴訟をもって請求する」と一定の歯止めをかけはしましたが、
訴訟に発展すればNHKが勝つのはほぼ確定なので、事実上、NHKの完全勝訴です。

受信料の未払い自体は支払っている国民の不公平感からしても当然の帰結ですが、
本当の問題は「受信料を何に対して、誰が払うのか」という問題です。
先の訴訟ではテレビの設置が前提で話が進んでいましたが、
今は携帯電話のワンセグ放送といった受信媒体の多様化や、
AbemaTVのようなインターネット番組といった放送形態の多様化が進んでおり、
必ずしもテレビを必要としない生活も成り立つようになってきました。
情報を知りたければ、ラジオ番組を聞きながら、ネットで映像や写真を探せば良いわけで、
テレビがなければ情報が手に入らないという時代ではなくなりました。

そうなってくると、現在訴訟中の携帯電話のワンセグ放送への受信料請求や、
インターネットそのものへの受信料請求など、拡大解釈による過剰請求が行われるでしょうし、
1人1台以上とも言える携帯電話に受信料請求がなされるようになれば、
世帯ごとに受信料を支払っている意味がなくなってしまい、
世帯ごとから国民一人一人への請求と形を変えていく可能性があります。
NHK自身の内部留保の多さから、受信料引き下げの議論が話題になったものの、
結局は見送られることになり、国民の受信料の負担感は一層増していくことが懸念されます。
今回の判決ではそういった将来展望への言及がないだけに、
NHKの受信料請求の歯止めがなくなってしまう可能性もあります。


そこで問題になるのは、そもそもの「公共放送の必要性」です。
NHKが果たしてきた役割は分かります。
これまでは間違いなく国民に貢献してきました、それは確かだと言い切れます。
しかし、今の「テレビ離れの時代」に公共放送を必要としている人がどれだけいるのか、
非常に疑わしいと言わざるを得ません。

NHKは公共放送の必要性として、「偏りのない番組」と言いますが、
とりわけ安倍政権になってから「政治的中立性」が煩く言われるようになって、
NHKの国内政治に関する論評は紙みたいなもの、中身がないスッカスカの論評で当てになりません。
世界のニュースに関しては、各国に支局を持つNHKの強みがあることは確かで、
その点の論評は大いに信頼しているところでありますが、
国内ニュースに関しては、「偏りのない」を自認するあまりに、内容を失ってしまっています。
だから、逆に民法の池上彰氏の特番が人気出るわけで…
「ぶっちゃけ」的な報道番組が人気を博してしまう理由だと思われます。

また、国会中継や学校コンクール等の「利益目的では成り立たない番組」も主張しますが、
そういった番組が民放で必要とされていないとは言い切れません。
80-90年代のバブル経済期、お笑いバラエティ番組ブームの時代ならば、
そういうこともありえたでしょうが、今ではバラエティ番組も視聴率一桁台の時代。
かといって、お笑いが国民から必要とされなくなったわけではなく、プロ野球中継と同じで、
劇場やライブに足を運ぶ人やライブDVD、インターネット放送など、
多種多様な楽しみ方が広がっているわけで、テレビに拘る必要性がなくなったとも言えます。
そうなってくると、テレビを見る時は何か情報を知りたい時、
とりわけ自然災害等の「情報番組」の方が必要とされる傾向にあり、
不謹慎ではありますが、そういった緊急的な情報の方が必要性が高くなっています。
NHKは「民放的な番組作り」を目指しているのに対して、
民放は「NHK的な番組作り」を目指していることの方が多く、
高校野球甲子園大会や箱根駅伝の人気ぶりを考えても、
学生スポーツ等の潜在的可能性は高いと言わざるを得ません。

そう考えていくと、「公共放送の必要性」という前提そのものが崩れてきています。
仮にNHKを民営化したところで、テレビ番組の質が落ちるとは起こり得ません。
NHKの役割を各民放放送局が担いつつあるのが現状で、
それは国民のニーズが必ず一定程度あるためです。
「偏りのない番組」のせいで結論が中途半端な番組が多くなり、
今のNHKが国民のニーズに応えているとは、とても思えません。

郵政民営化を行った小泉内閣の下で、NHKの民営化も議論されていたはずでしたが、
いつのまにか民営化路線は取り止め、NHKの特別扱いだけが目立つ結果となり、
「岩盤規制改革だ」と息の荒い安倍政権でもNHK民営化は完全にタブー状態です。
その結果、何が起こったかと言えば、NHKの過度な受信料請求で、
「受信料を払ってもらえるテレビ番組作り」を行っていたものが、
「受信料を支払うのは当然なテレビ番組作り」に変わってしまい、
「創意工夫の魅せる番組」から、「金かけただけの驕り番組」へと変質してしまいました。
今のNHKは受信料支払いは当然だとする驕りしか見えません。
そんなNHKが公共放送として国民の期待に応えられているとは思えないわけで、
今回の裁判結果がもたらす「影響」を非常に心配しています。

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