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ドローンを飛ばす罪

浅草の三社祭の運営を妨害したとして、
15歳の少年が「威力業務妨害」で逮捕されたというニュースがありました。
報道でも分かるように、この少年のネットジャンキーっぷりは同情の余地がなく、
彼を擁護するつもりはさらさらないのですが、
襲撃予告や殺人予告ならまだしも、ドローンを飛ばすことが「威力」になるのか疑問です。

「威力業務妨害」と「偽計業務妨害」の違い等は、
議論するのが馬鹿らしくなるほど微妙すぎるわけですが、
一般的に「威力=有形力の行使」と考えられ、いわゆる実力行使のことを指します。
ただ、その有形力の範囲も広範すぎて定められないのが実情…
一般的には、パンに針を混入したりと、暴行のような実力行使よりも軽いものの、
悪質性の高い行為が「威力」と考えられてきました。

それでは、今回の一件、何が「威力」になるのか。
ドローンで撮影する行為が「威力」に当たるのか、
ドローンが落下して怪我をする可能性があることが「威力」に当たるのか、
そもそもドローンを飛ばすこと自体がもう「威力」に当たるのか、さっぱり分かりません。
いずれにしても、これではドローンを飛ばすこと自体できなくなってしまいます。
誰かがドローンを見かけて「業務が妨害された」と言えば、
威力業務妨害になる可能性が生じてしまうからです。

仮にドローンの落下危険性があるとしても、
意図的に落下させて攻撃するにしては価格も高すぎるだけに、
現状ではそう解釈することは難しいです。
(もっとも、さらに安価になって行けば、そういう使い方がされる可能性も…)
ただ、実際に事故も起きているようですし、それは操縦者の問題なのか、
それとも製品そのものの問題性、製造物責任が問われるのか否かも気になるところです。

やや話が逸れてしまいましたが、首相官邸の事件以降、
あまりにもドローンに対して過敏すぎる印象も受けます。
勿論、規制する必要性があるのは否定しませんが、
現状では規制されていないだけに、法律の拡大解釈による過剰規制になっていないか、
ちょっと考える必要があるように思えます。
これではドローンを飛ばすこと自体、
下手すればラジコンさえも飛ばせないかもしれません。


◆ニュースネタ 「抑止力論」と「積極的平和主義」
(1)「抑止力論」とその末路
何回か説明はしていると思うのですが、こういうご時勢なので再度説明(^^;
「抑止力」の説明は不要だとは思いますが、
要は「武器対等」なら攻撃したとしても、
反撃の被害が甚大になるから、軽々しく攻撃できませんね、という話です。
これが盛んに叫ばれていたのが、20世紀後半のアメリカ・ソ連の東西冷戦時代で、
「核抑止力」として両者のあくなき軍拡・開発競争が繰り広げられ、
自らを容易に滅ぼしうる程の核兵器を量産した歴史的事実がありました。

「抑止力」において重要なのは「武器対等」の原則であり、
力が拮抗していなければ意味をなさないということです。
ただ、現実には相手の軍事力よりも常に上を行こうとしますので、
それが際限なき軍拡競争を呼び、逆に緊張状態を高める結果になるわけです。
米ソの東西冷戦は、戦後に超大国として君臨した2国の軍拡競争が、
軍事費の多大なる圧迫という形で経済を直撃し、
結果としてその間隙を付く形で日本が経済大国として台頭、
疲弊した経済を立て直すために、米ソはデタント(緊張緩和)へ乗り出し、
最終的にはソ連の経済が持たずに、ソ連崩壊という形で冷戦は終結したわけです。

つまり、「抑止力」による平和とは、「互いに銃を突き付けあった平和」であり、
常に対等な武器による勢力の均衡が図られなければ、簡単に崩れてしまう平和なわけです。
「抑止力論」は為政者にとっては非常に便利な理論で、
軍事力拡大の根拠となり得る点、有事の際に準備万端だったとする責任逃れの点で、
扱いやすい便利な理論だと言えます。
実際に歴史の多くが抑止力論による「勢力均衡による平和」が行われてきましたが、
問題は核兵器に象徴されるように、武器そのものが人類を滅ぼしかねない点です。

例えば、川中島の戦いのように、上杉と武田の定期戦が行われたとしても、
両者が互いに滅ぼし合うところまではいかなかったわけですが、
現代ではボタン一つで互いを滅ぼし合うところまで兵器の性能が上がっています。
一歩間違えれば、水鳥が羽ばたくのに驚いて引き金を引くだけで、
簡単に均衡が崩れて戦争状態になる状況を「平和」と呼べるのか?
互いを殲滅し合う制御不能な戦争を呼び起こす危うい均衡を維持することが、
本当に「平和」なのか、我々は考える必要があります。


(2)「平和」とは何か
個人的な見解では「平和」を定義する上で「治安」と「外交」があるように思えます。
まず、「治安」は国内の安全状況で、それを測る上では、
①「権力装置」=警察機能の強さ。また、国内政治そのものの安定性。
②「公平性」=貧困・格差の程度。犯罪発生原因そのものの少なさ。
が想定され、両者は反比例の関係にあるように思えます。
「公平性」が高ければ、「権力装置」が十分機能しなかったとしても「治安」は保たれ、
逆に「権力装置」が高ければ、「治安」も担保されるものの、
「公平性」が確保されていなければ、圧政となってしまう。
言うなれば、「公平性」が完全に確保されれば、「治安」は解決するのですが、
完全な「公平性」は確保されないので、そこを「権力装置」で埋める、それが理想でしょう。

同様に、「外交」は国際社会での安全状況を表し、
①「軍事力」=抑止論に基づく自衛戦力。
②「親密度」=国家・国民の信頼度合い。相手国の情報や相互理解度。
が想定され、同様に両者も反比例の関係にあり、
「親密度」が高ければ、「軍事力」が少なくとも「外交」は保たれ、
逆に「軍事力」が高ければ、「外交」も担保されるものの、
「親密度」が低ければ、国際信用力を失ってしまうということです。

所謂、「武力による平和」、紛争がないという意味では、
一見するとフセイン時代のイラクだって「平和」であったと言えたかもしれませんが、
国内的には「公平性」が担保されず、少数民族が弾圧・処刑されており、
国際的には「親密度」が低いために、アメリカ等から常に警戒され、経済制裁を受けた、
こういう状況が果たして「平和」であるのか、大いに疑問が残ります。

しかし、「抑止力論」のもたらす「平和」というのは、常にこの種の平和です。
極めて危うく、極めて不合理な「平和」…それが真の「平和」だと言えましょうか?
そんな仮初めの危うい平和を私達は求めていると言えましょうか?
「抑止力論」を振りかざす輩はいつも「最悪事態主義」、
もし、こうなったら、どうするのか、それに備えなければならない、ばかり。
実際にその「最悪事態」が起こる確率はどれ程の確率なのか?
逆に「最悪事態」を想定した「備え」をした結果、
その「最悪事態」を発生させる確率を高めてしまわないのか、彼らは考えません。
最悪事態を想定した結果、さらに最悪な事態を呼び込む、それが抑止力論の末路です。

では、真に「平和」を求めるためにはどうすればいいのか。
簡単なことです、「権力装置」と「軍事力」を緩和し、
「公平性」と「親密度」を高めれば良いわけです。

ちなみに、上記の定義付けに従うわけではありませんが、
平和学では①に基づく抑圧的な・とりあえず紛争のない平和を「消極的平和」と言い、
②を高めていった平和を「積極的平和」と呼ぶそうです。
総理の掲げる「積極的平和主義」は「抑止力論」に基づくものですから、
平和学的には「消極的平和主義」ですよね、言葉の完全な誤用になっています。


(3)「(一国平和主義の反対の意味としての)積極的平和主義」の末路
総理の掲げる「積極的平和主義」は、正確には「消極的平和主義」となるわけですが、
好意的に解釈するならば、「一国平和主義」の反対の意味としての
「集団安全保障体制」のことを指しているように思われます。
私は人が良いので、そのように解釈して以後は話を進めていきます(笑)

この「集団安全保障体制」の最たるものが「国連」でした。
国連は当初から「国連軍」の創設を想定するなど、
国際連盟時代にはなかった強制力を持った組織にする予定でしたが、
米ソの東西冷戦の時代には全く機能せず、
両国の拒否権の前に集団安全保障体制を十分に発揮できずにいました。
それがソ連崩壊によって冷戦が終結したことで、
1990年代にPKO派遣といった平和維持活動を積極的に行い、
強制力を持った国連主導の集団安全保障体制が強められた時期がありました。
湾岸戦争自体は国連が主導したものではありませんでしたが、
多国籍軍には安保理も大きく関わっており、
世界的に集団安全保障体制が夢見られていた時代だっただけに、
日本のお金のみの参加は国際的にも批判されることになってしまいました。

そんな国連の集団安全保障体制は、一定の成果を挙げたものの、
ソマリア派兵の大失敗で大きな転換を迫られることになりました。
「強制力を持った国連平和維持活動」=軍隊なわけで、
内戦状態のところに介入する以上は、完全な中立を保てるわけもなく、
一方の味方をすれば相手から恨まれ、逆の味方をすれば相手から恨まれ…
つまり、「平和」を名目に軍事介入したものの、
ソマリア国内の人々からすれば、「平和の使者」ではなく「他国の侵略」と映り、
国連そのものが憎まれ、攻撃対象となるという事態に陥ってしまいました。
結果、ソマリアの内戦は泥沼化し、途中に和平合意等はあったものの、
すぐに内戦状態に陥るなど、近年まで混迷を極めていました。
(ソマリア派兵の国連の失敗に関しては、
 映画『ブラックホーク・ダウン』が参考になるかと思われます)

結局、「平和」とは誰にとっての「平和」なのかが問題なわけです。
アメリカが「世界の警察」と呼ばれた時期もありましたが、
別にアメリカが全ての内戦に関与したわけではなく、
アメリカの利害関係のある国に対して、アメリカに都合の良い側を味方したわけで、
それはアメリカにとっての「平和」に過ぎません。
それがその国に住まう人々にとっての「平和」とはイコールではないわけです。

そんな各国にとっての「平和」が対立した結果が、今のシリア問題です。
ロシアがアサド政権を支持し、アメリカは反アサドではあるものの、
イスラム過激派を含む反アサドに与することはできない…
結果、有効な手が打てないままに、アサド政権が延命し、
ISILの台頭もあってシリア内戦は泥沼化してしまいました。
大国の「消極的平和」の押し付け合いが、
ソマリア内戦同様に、シリア内戦も泥沼化させたといっても過言ではありません。


(4)積極的平和に対する真なるアプローチ
結局、安倍政権の抑止力論に基づく集団安全保障体制の末路は、
抑止力強化のための際限ない軍事化とさらなる政治的な緊張化、そして経済の疲弊、
自衛隊海外派兵による「中立」的活動から軍事的「介入」への変化、
そしてそれに伴う自衛隊の敵視化、自衛隊の人的被害増加、
日本人そのものへの敵視化、に通ずる政策です。
言わば、今のアメリカが置かれている国際的状況に日本も並ぶ、
アメリカと同じように、日本も憎悪の対象になる危険性が生まれるということです。

「武器を捨てれば平和になる」、それは確かに幻想かもしれません。
でも、同時に「武器によって平和になる」というのも幻想に過ぎません。
確かに一時的な消極的平和状態、表立った戦争のない状態は作れるかもしれませんが、
最終的に武装解除がなされない限りは、再び戦争になりかねず、
結果、内戦が長引いてしまうことを歴史が立証しています。

内戦を終わらせるために、外国の武力介入が必要なこともあるかもしれません。
でも、その外国は自分達にとっての「平和」を求めているのみで、
内戦当事国にとっての「平和」となるかは定かではありません。
結局は、当事国が主体的に「平和」を求めなければ、
「積極的平和」はなし得ることはできません。

今の国連の平和に対するアプローチは「仲介」です。
あくまで「中立」的な立場として平和維持活動をする、そういうスタンスです。
言わば、戦後日本が取ってきた平和のスタンスが見直されている時代になったわけです。
武器を捨てて、貧困対策・ODA援助・インフラ整備等々、
消極的平和を積極的平和に変える平和活動が見直される時代になりました。
勿論、かつての日本のODAにも偏りがあって、
十分な支援活動になっていなかったという批判もありますが、
日本の外交においては第二次大戦の清算の意味もあり、重要な外交手段の一つでした。
それと同時に、敗戦から武器を捨てての経済大国への復興を遂げた日本は、
内戦を終結し、新たな一歩を踏み出そうとする国々にとっての良き手本であり、
希望にもなり得る国家であったように思えます。

それがアメリカの犬に成り下がり、アメリカの核の傘の下でのうのうと暮らし、
平和を積極的に語ろうともせずに、
ついには戦後の平和をも捨て去り、普通の軍事国家の道を歩もうとする日本は、
時代に逆行した流れを歩んでいると言わざるを得ません。
1990年前後の頭で、湾岸戦争のトラウマだけで「平和」を考えているようではダメで、
日本でしかできない「中立性」を発揮し、
「積極的平和」に対して主体的に取り組む国家にならなければなりません。
時代の流れに逆らった安倍政権の選択の末路は、日本の末路はどうなってしまうのか?
間違った選択にならないようにするためにも、
安保問題に対しては重大な関心を持たなければなりません。


(補)執筆中 グローバリゼーションと原理主義の台頭
もし、世界の集団安全保障体制が新たな局面に入っていると考えるとするならば、
それは反グローバリゼーションとしての「原理主義」の台頭でしょう。
「テロとの戦い」、その難しさをアフガニスタン・イラクにおいて、
アメリカは白日の下に晒してしまったわけですが、
それが今はISILという形となって、世界的脅威になりつつあります。

この戦いにおいても、軍事力は終局的な解決に至らせることはできませんが、
今までの国家対国家でもなければ、地理的制約を受ける内戦でもなく、
国境を越えた内戦状態が生まれたことは、新たな政治的局面だと言えます。
これらの戦いに当事者が主体的に取り組めないのであれば、
戦線を広げないためにも、一定の軍事力行使も必要とされるケースがあるかもしれません。

そういう意味でも、私自身が懸念しているのは、
軍事化が進んでいる中国や北朝鮮ではなく、
むしろ、東アジアにおけるイスラム原理主義の台頭です。
具体的に言えば、TPPを始めとする今後アジアで進むであろうグローバリゼーションが、
貧富の格差を拡大させ、イスラム原理主義勢力の台頭が進んでいかないか、
ISILに参戦した原理主義者が自国へ帰って、新たなアジアの政治的脅威にならないか、
アジア最大のイスラム国であるインドネシアの政情を最も懸念しています。

日本とインドネシアは歴史的にも深い交友関係にあるだけに、
早期にアメリカとインドネシアの安全保障上の関係を改善させ、
政治的にも経済的にも良好なパートナーとなりうるように、
外交努力を積み重ねる必要があると思います。
現時点ではそこまで状況が逼迫していませんので、
「積極的平和」が失われないための努力、平和を維持する努力を重ねて欲しいです。

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