最悪の結末
事件発生当初から厳しい観測がなされていた人質事件ですが、
1人目の湯川氏の死亡が伝えられ、2人目の後藤氏と思われる人物も殺害されるなど、
最悪の結末を迎えることとなってしまいました。
一時は解放されるのではないかという報道もあって、
好転するムードもなくはなかったので、それだけに衝撃は大きかったですね…
結局、日本政府として何ができて、何ができなかったのか、
何をすればよかったのか、今後どうすれば良いのか、
私達一般国民にはその交渉過程も政府の対応も何ら見えないものだけに、
しっかりと検証を重ね、今後の教訓としてもらいたいです。
自衛隊派遣だとかそれ以前の話でしょう?
交渉すら参加できないのだから、軍事力を用いる前段階の外交力の欠如という話。
まぁ、そういう政治的な話は置いておくとして、
私達が忘れてはならないのは、
今、私達が感じている悲しみ・怒り・苦しみ・恐怖・戸惑い、
そういった諸々の感情を紛争地の人々は毎日のように、毎時間のように感じているということです。
そんな苦しい現実に直面しながらも、彼らは生きていますし、
時には小さな幸せをかみ締めて笑顔を見せてくれるわけです。
そんな紛争地の人々の心の苦しみ、そして私達と変わらず生きている人間の有様、
そういったものを少しでも感じ取ることができたのならば、
ジャーナリストとしての後藤氏の死に対して、多少の慰めになるのかなと思ったりもします。
後藤氏のようなジャーナリストがいたことを忘れることは、ある意味で容易ですが、
そうではなく、居たということを私達は正しく認識しなければならないでしょうね。
◆ニュースネタ 戦後70年を迎えるにあたって
日曜のNHK海外ネットワークにおいて、戦後を巡るドイツの対応が放送され、
アウシュビッツ収容所を始めとして虐殺されてしまったユダヤの人々の、
かつての住まい付近の道路にネームプレートを打ち込む様子が放送されました。
その中では、1人のドイツ人の男性が自宅付近にネームプレートがないのを不思議に思い、
自ら過去を調べて、若くして殺されたユダヤ人の少女のことを知り、
遺族とともに、彼女のネームプレートを埋め込む光景が映し出されていました。
それを見て思ったのは、過去を顧みる、現実を直視するというのは、
こういうことなのだと云うことです。
日本人が果たして同じようなことをしてきたのか、
いや、これからも同じような取組みができるのか。
「一億総懺悔」と言いつつも、責任を曖昧にしたまま、
各人がその罪を蓋にして語らず、ひたすら現実を生きてきた日本人…
「忘れる」という消極的な方法でしか罪を認められず、
今では前提にあった「罪」だけが忘れ去られ、
戦前の日本を肯定するような言説まで幅を利かせる始末…
戦争の反省とは何なのか、改めてそれが問われているように思います。