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ソチ五輪が開幕

開会式でいきなり聖火がスタジアム外に出てったのには驚きましたが(苦笑)
ここまで日本選手は予想通りの苦戦を強いられている印象です。
少し事前報道の煽りが過剰すぎた感がありますね。
上手く行けばスピードスケート500mは、という感じもありましたが、
蓋を開けてみれば、オランダ勢が圧倒、厳しい戦いとなっています。
こうなると、期待はジャンプ女子の高梨選手やフィギュア勢となりますが、
浅田選手以外は五輪未経験なだけに、
過度なプレッシャーは与えないようにしたいですね。

さて、開催地のソチですが、日本ではあまり馴染みのない黒海沿岸の都市ですが、
世界史的には黒海を挟んで、ロシア・中央アジア・トルコ・東ヨーロッパと隣接し、
宗教的にはキリスト教とイスラム教の境界線上にあるなど、重要な要所です。
ロシアとトルコ・イギリス・フランスが激突したクリミア戦争では、
赤十字発祥の地とされ、天気予報が重要視されるようになるなど、
現代に繋がる多くの発明がなされています。
日本ではあまりピックアップされませんが、
これを機会に中央アジアに対する関心を深めるのも良いかもしれません。


◆政治ネタ 東京都知事選は枡添氏が勝利
細川元首相の「脱原発、ほどほどの生活」が大量消費社会を脱せない東京都民に
果たして受け入れられるのか注目していましたが、
出馬が大きく遅れ、準備不足を露呈してしまったことと、
熊本のイメージが抜け切らず、都民に受け入れられにくかった気がします。

しかし、東京外にいるせいか、サッパリ盛り上がりませんでしたね。
ソチ五輪と重なったことや前日に大雪が降った影響が大きく、
正直言って、「えっ!?今日が都知事選の投票日?」という感じでしたから。
低投票率に終わったのも分からなくもないです。

そんな中で一抹の不安となっているのが、田母神氏が予想以上に善戦したことでしょう。
世界ではナショナリストの台頭に日本に対する警戒感が強まっているとか。
デヴィ夫人の応援は分からなくもないものの、
NHK経営委員でもある作家の百田尚樹氏まで応援となると、
NHKは中立性に程遠いナショナリストばかりなのかと思われてしまいますし、
映画かもされた『永遠の0』が戦争賛美ではないというフォローさえも、
作家自身の考え方が戦争賛美であれば、自然と作品もそう見做されてしまいます。
本来は、作家と作品は切り離して考えられなければならないわけですが、
作家自身が作品を台無しにしてしまったケースですよねぇ…
なんだ、結局、戦争賛美で図星突かれたから怒ってただけなのか(苦笑)

彼らはすぐに太平洋戦争を「自衛のための戦争」だったと言いますが、
確かにそれはクラウゼヴィッツ的な戦争論では間違いではないのかもしれませんが、
現実の戦争はその政治的意思を超えた結末をもたらすことが常で、
当初の政治的達成目標とその被害想定を大きく超えて、独り歩きするものです。
ドイツ30年戦争しかり、第一次世界大戦しかり、太平洋戦争もしかり。
その当時の日本軍の政治的達成目標がどの程度であったかは定かではありませんが、
それを達成するにはあまりに見込み違いの戦争をしてしまった感は否めません。

また、東京大空襲や原爆投下が民間人に多大な被害をもたらしたことは事実ですが、
このような「総力戦」は何も太平洋戦争が初めてなわけではなく、
第一次世界大戦でヨーロッパが甚大な被害をもたらした過去があるわけですから、
それをもって被害者面するのは、あまりに無知であったと言わざるを得ません。

敗者の歴史も大事ではありますが、彼らは「戦争で負けた」という事実に対して、
いつも言い訳をしているようにしか思えません。
日本の歴史ほど敗者の歴史を葬り去ってきた歴史はないでしょうに。
先住民族としてアイヌ民族が認定されていますが、彼らの歴史もそうですし、
民族であるかは別にして、九州・出雲・東北など各地で異なる文化圏があったわけで、
それらを全て切捨てたがために、日本の古代史は天皇神話のみで、中身は詳細不明、
南北朝時台を除けば勝者の歴史が残されるのみ、という有様です。
そんな人間達が敗者の歴史を大事にしろと言っても説得力ねーです。
その前にアイヌの歴史を日本史の教科書に掲載するべきじゃねーのかね?


それに関連して、いわゆる「集団的自衛権」もまた時代遅れの議論という感じです。
東西冷戦構造、国家対国家の構図だったからこそ成り立った論理であって、
集団安全保障の神話は既に崩れていると言っても過言ではありません。
現在は国家対非国家(テロ・犯罪組織等)だったり、国家内部の対立であることが多く、
意図が読めない北朝鮮の動きには警戒する必要がありますが、
例えば中国と正面衝突するというケースはなかなか考えづらいものがあります。

本来、集団安全保障の中核を担うはずだった国連にしても、
いわゆる国連「軍」は1990年代にPKOからPKFと意欲的に取り組んだものの、
ソマリア内戦では軍事介入した国連自身が宣戦布告され、
戦闘当事者となって泥沼化の様相を呈していったことを考えれば、
必ずしも軍事力を全面に出すことが和平へ繋がるわけではないことは明らかです。
結局、その後の国連は「調停者」としての立場を確保するようになり、
専らPKO活動中心となっています。
戦後の日本もアメリカの腰巾着と言われながらも、尊敬の念を集めてきたのも、
積極的な軍事介入をしなかったからであって、
そういった「調停者」の立場を捨て去ることに利があるのか、考えなければなりません。

つまり、もう集団的自衛権の話は湾岸戦争で終わってる話なんですよね。
1995年のソマリア内戦の失敗、2001年の同時多発テロ事件以降、
世界の安全保障形態は大きく変化しているのに、
何ら考慮することなく、昔の議論を持ってきてしまう辺りが…亡霊に取り憑かれてます。


そもそも、日本人がどこまで現代史を考察できているのかはかなり疑問が残ります。
歴史の授業も近代までをメインにしていることが多く、現代は太平洋戦争の経過と国連の成立、
おおよそそこで歴史の授業は終わってしまいます。
授業以外でも太平洋戦争の系統だった研究がなされているのは丸山真男氏ぐらいで、
言わば、日本人が敗戦そのものを語らず、臭いものに蓋をするかのように覆い被せたのに、
それを「自虐教育だ」と訳の分からん言いがかりをつけて、
中身が程よく発酵して食べ頃になっているのかもしれないのに、
それらを「腐っている」と決め付け、容赦なく戦後史を否定しようとしている、感じですね。

いつになったら、日本人は敗戦の事実を受け入れられるんですかね。
世界では民族対立の解決方法として、敢えて悲しみ・憎しみを全て表に出すことで、
民族の和解を図ろうとしているのに、日本人はいつもそれを隠してしまう。
そんな日本の困った性分は全く持って直ることがありません。
その歪みが今になって出ている、そう思えます。
明治維新の歪みが太平洋戦争に繋がったのなら、
敗戦を受け入れられなかった歪みはどこに繋がって行くのでしょうか?

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