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本題は追記より。

振られたからには~と思って書いてたら、なんかずいぶん長くなりました。
内容は相変わらず無いですががが。

とりあえずPCは今のところ好調です。つか私の用途で吹っ飛んだらそれはそれでヤバいわな。
VirturalBoxとRainmeterを使用中です。
HDDの空きが無いので、とりあえずVistaにVituralbox入れて、CentOSを仮想環境で動かす方向で。
いずれCentOS on CentOSとか…って思って調べたら、結構大変そう。

VirtualBoxの利点は何と言ってもスナップショット(超いまさらな話)
バックアップがゲームのセーブデータ扱いとか良い意味で酷すぎます。
ただ、仮想環境との共有フォルダがなぜか構成できないので、扱いを保留中。
WebストレージはWindows⇔Linux間で相性悪いし…

Rainmeterは適当に弄り中。
今はこんな感じ。
メーター要素が無いのは知らん(ぉ
背景は2重構造。フィルムの中と外でレイヤー化してます。
中は気分によって変えられるので楽しい。
iTunesのアルバムアートワークスキンがあったので左上配置でやってますが、もう少しどうにかしたいところ。
良い案ないかにゃー。

さて、本題。実は危うくサラっと流すところでした(マテ
前述どおり長くまとまらない文章になっちゃったんで下からどーぞ。

久々に長文打って疲れた(^^)
青娥さまに踏まれたい。青娥さまになじられたい。青娥さまに流し眼で嘲笑されたい。青娥さまn(ry

まず先に私の今現在のスタンスを、茶化しつつ結論含めつつ述べさせていただきます。

高野連に限らず、放任主義というか…線引きを失ってさまよっているので、主義ですらないと思ってます。
それでいて情報操作で利益だけは確保しようとする…正直言って、前のクソ職場を彷彿とさせるので政府もろとも消え去って欲しいというのが個人的な本音です。
まぁでもしょうがない。国家目標が資本をどーにかして幸福を考える事だから。人の内面は金が生む物資以下です。結果が出ないと滅びるのみ。国がそう言ってる。そりゃ自分の利益が大事になりますよ。
この流れを止めようと思うなら、やはり宗教が大事だと思うのですが、まぁそれは洗脳されてる人間の言葉としか取られないと思うので割愛します。ブログ向きじゃないですし。

では、できる限り真面目な話をしましょう。といっても、簡単な話です。
簡単な話ですが、せっかくなので細かくいきますね。

いたずらに「個」を尊重するために動いた下手な教育の流れが、悪い方向へ動いて、もはや戻り道すら失ってるのが、今のこの国の現状です。
教育に限りませんが、とりあえず教育に絞って書きます。
「他」が存在する意味を考えようともしない身勝手にあまる人がとにかく多すぎる、のは誰かしら気づいてはいると思います。
しかも、立場を悪用してるからもう救いようがないですよね…良い大人が露骨にそういう態度をさらしています。
それゆえに子供ですらも、いたずらにプライバシーを訴え、他者を排斥するような執拗な攻撃を加え、様々な事件に発展していきました。
加減を知らない分、子供は残酷です。保護者がそれに目をつむってはいけません。

しかしながら、今の保護者は酷いものですね。
後述しますが、ここでいう「保護者」とは親のみにあらず。
彼らは一体、何を保護しているのでしょう?クソみたいなプライド以外は何も保護してないと思えます。それなのに、他人の失点はどんなに小さいものでも責め立てます。その点に関しては子供以上に子供です。
はたして自分自身の立場を理解したうえで、絶対に譲れない一線を堅持し、それを犯した者を教育できる人間がどれほどいるでしょうか。
また、子供を叱りつけたところで、それほどの説得力を我々大人が果たして持っているでしょうか?
また、法そのものや、それを司っている者に説得力があるでしょうか?

罪というのは心が未熟な人間が犯すものです。どんなに擁護しても、これだけは覆りません。
未熟だった、ということを教えるにはどうしたらよいかは割と明白です。
勝手な行動が身近なものにどれだけの悪影響を及ぼしたかを知らしめればよいのです。
なぜか厳罰扱いだった連帯責任の最大のメリットは、同一の立場にある「多数の」仲間への配慮が生まれるという点。
悪いことをした人を一方的に責めてしまう危険性も含んではいますが、そもそも間違いを犯した人になぜ配慮が必要なのでしょうか?
こういった、本来不必要な配慮が問題を不明瞭にしています。だから未熟さも理解されない。
腐れメディアや学者連中は心の闇とかうまいこと言ってるつもりでしょうが、とんでもないことです。
他者を傷つけてまで自利を貪った報いは、どんなに不釣り合いなものであれ、可及的速やかに罰として受けるべきです。それをすべて受け入れて自省して、そこで初めて「成長」と呼ぶのです。
もちろん、連帯責任以外にも方法は有るでしょう。高校野球の場合は、たまたま団体スポーツだったというだけの話です。
人間、誰しも未熟な面を持っています。そこから罪が出るのはどうしようもありません。
しかし、罪を犯したときに未熟さに気づかせてくれる存在がないならば、それ先の成長は望めません。
自分以外の人々や法・規則はそのために存在しなければなりません。そしてその存在は受け入れるべきですし、受け入れられる側も相応の、しかるべき力が必要です。
思うに、昔から法・規則についての教育方法があいまいどころか間違ってる気すらするんですよね…

今回の問題に目を移します。
前述して保護者と言いましたが、保護者とは子に対しての親・教師・各種関係団体のことです。
そしてその、いわゆる「保護者」というのは子の成長を支え見守る立場です。
上の者として自律し、子を指導し、罪を犯したならば納得できる形で子を叱らなければなりません。
そして、その保護者の中にもそれぞれの立場があります。
高校野球に例えて言えば、高野連→学校→監督→選手…となり、このなかで、トップダウン形式に保護責任や管理責任が生まれます。

ちょっと変な例えになりますが、企業でいえば高野連が社長、学校は部長ですね。監督はチーフで選手は部下です。そして部下が罪を犯しました。
社長は部長に対して、「何してるんだ!お前の部下の失態で会社の評判が落ちるじゃないか!オレはもう知らん!あとはお前らで考えて適当にやれ!報告だけはしろよ!」と言ったわけです。
多分、損失の大きさに応じて、部長は部下を処分した後に自身の処分を申請してくるでしょう。
高校野球でいえば、秋季大会出場辞退とか、そんな感じ。
なぜか社会では割とよくあるやり取りですね。何分、利益追求第一&個々に責任感があって当然ですから。
ちなみに、流れにもよりますが、たいていの場合こんな社長はダメダメです。

さてさて、会社でもダメっぽいこのやり取り。これが教育現場だとどうでしょう?
教育の最大の利益は、言うまでもなく子供たちが成長することです。
そのためには、組織が一丸となって取り組まなければなりません。
それなのに、問題に直面しながら、「もう知らん!適当にやれ!」は無いでしょう。あきれ返る一方です。
もっと端的に言うと、伝言ゲームでお叱りの言葉を伝えています。しかも電話か紙切れで。これで伝わる訳がない。伝わるくらいなら最初から教育機関なんて要りません。

子供は、間違いを重ねながら自ら考え動き成長する立場です。
子の間違いを正すために苦心できない、子の成長を支えられない者に保護者の資格はありません。
つまり本来保護者たるべき高野連サマは保護者の資格を失っているので必要ありません。
保護者になりたくないと言うのなら、名前とやり方を変えて、利益を生みたいもの同士で勝手にやってください。
全国を巻き込んだ商売なんてとんでもない…というのが私の大まかな考えです。
商業主義に対してまで言及するとさらに収拾つかなくなるのでやめ。

…読み返してみると、「どうするべきか」が全く触れられてませんが、どう思うかとしか聞かれてないから良い…のか?(^^)
正直都会の事は分かりませんが、隣人すら他人という状況を打破しないことには人間関係は上向きにならないと思う。
他人だらけの社会は隙だらけなんですよ?
地域内での面識を広めるのは、お互いに良い抑止力になるんです。田舎にいると良く分かる。

コメント

自分で話題を振っておきながら、長らく放置していてすいませんでした m(_ _)m
いや、正直、まさかここまで熱い文章が帰ってくるとは予想していませんでした(^^;
先週はプロ野球の結果に一喜一憂しすぎて、チェック遅れてました。
重ね重ね申し訳ない。

えーっと、結論としては、「今の放任主義の高野連は不要」ということでいいんでしょうかね。
私が言うのもアレですが、ちょっと過激に書き過ぎじゃないと思ったり(^^;
読んでて冷や汗かきそうになりました…
自分では思っていても、そこまで書けないし、たぶん消してるレベル(^^;
あまりストレスを溜めないようにしてくださいね。
特に序盤は前の職場に対する怒りというか、文章とは別の怒りが伝わってきます。

結論とは別の内容に関してですが、
「個」尊重の教育と「他」の存在の欠如は頷くところが多いのですが、
だからといって、某自民党総裁選に出ている元首相の「愛国心教育」に繋がりかねない部分もあって、
その点では誤解を招きかねい部分もあるかと思います。
まぁ、でも、「個」尊重の教育も「愛国心教育」も、どちらも対象は違っていても、
特権意識を植め込むための教育になりかねない部分はありますよね。
そういう意味では、「他」の存在、
自分と他者との関係性に主眼を置く発想は、正しい見解だと私も思います。

表現として引っかかるのは、「罪というのは心が未熟~」のくだりが少々。
この文章からすると、世の中のほとんどの人間が「未熟」となってしまいますが、
世間一般の「未熟」「成熟」の表現と少し乖離が見られるので、
印象として罪を犯した人を一段下に見てしまう恐れを感じます。
まぁ、確かに、罪を犯す・犯さないの心の最終ハードルを飛び越えたという意味では、
未熟と言わざるを得ないんですが、
かといってそのハードルは誰でも越える可能性があるわけで、
そこは表現としてあまり適切ではないようにも思えます。
逆に考えて、「成熟」「完熟」した精神というのが考えにくいのと同じでしょう。
それなら「心が弱い」の表現の方がしっくり来る感じがします。

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