ロンドン五輪
競泳陣の活躍もあって、銅メダルを中心にメダル獲得数自体は増えていますね。
ただ、金メダルは現時点で1個。改めて、世界一の難しさ・重さを感じます。
周囲はメダルの有無やメダルの色であれこれと言いますが、
大事なのは最低でも4年間頑張ってきた成果を出すことであり、
選手個人が力を発揮し、大舞台で己を出せることを期待したいです。
◆ニュースネタ 「脱原発」の行き先はどこなのか?
脱原発を掲げてのデモ行進等が頻繁に行われているようですが…
彼らの反対運動の行き先は一体どこにあるんでしょうかね。
そりゃ永遠に電力を生成し続ける永久機関が存在すれば、
誰だって原発を使おうとは思わないわけで、
最終的にエネルギー政策をどう考えているのでしょうか。
そんなことやってる暇があったら、マクスウェルの悪魔でも探してきてくれ(苦笑)
もう一つは何で今頃になって「脱原発」なのかということです。
勿論、福島原発の事故で放射能の恐怖が身近なものとなったことが理由でしょうが、
これが初めての原発事故ではあるまいし、それまで何を考えて生きていたのという話です。
今のイジメ問題に照らし合わせれば、
「お前らだって見てみぬ振りをしてたじゃないか」という傍観者の罪ということです。
原発の危険性については、東西冷戦が終結した90年代前半には、
チェルノブイリの悲劇として世界中が知ることになったわけですから、
その後に生まれた平成生まれであっても、それを知らないで済ますことはできません。
原発の危険性を知りながら放置しておいて、今更、反対だというのなら、
有効な回避策を提示すべきことは当然でしょう。
自らを省みずして、新しい展開などできません。
その頃から生きている私個人としての記憶を振り返れば、
当時の社会科の資料集に載っていた北野武氏のコラムが忘れられません。
細かい文章までは記憶していませんので、結論だけを言えば、
「脱原発の行き先は原始時代への回帰」だということです。
今の生活を捨てる覚悟がないなら、脱原発はできないということでした。
綺麗ごとばかりが並べられている教科書の中で、
実直に事実を述べたその文章は、当時小学生だった私にとって衝撃でしたね。
「脱原発」を掲げる人間がパソコンや携帯電話を使ってデモの情報を広め、
自家用車を使ってデモの会場へ集まる、こんな笑える話が他にあるでしょうか。
今の時代に脱原発を真に唱えられるのはホームレスの人々ぐらいでそう。
脱原発の前に、家のエアコンを、冷蔵庫を、テレビを、自動車を、
現代の家電製品のことごとくを打ち壊せ、まずはそれからだ、
終局的にはそういうことです。
これで「脱原発」を掲げている人がイジメ問題の傍観者を叩いていたら、笑い事じゃないですね。
偽善という言葉さえも通り越す、憎悪の対象ですよ。
「私たちは福島の人たちを一緒になってイジメたんですよ?」、
思考停止な人がいたら、是非ともそう言ってあげましょう。
◆ニュースネタ 大津市のイジメ自殺問題
学校や教育委員会がまともに機能していない以上、彼らの自浄能力は期待できないだけに、
警察機構の介入は学校自治の精神に反するものの、致し方ないのが実情でしょう。
情けないやね。JR西日本の福知山線の脱線事故と同じ構図。
過剰な成果主義が不祥事の隠蔽を呼び、事態を悪化させる。同じことの繰り返しですわ。
心配なのは子ども達の心のケア。
この事件は周囲に誰一人として信頼できる大人がいなかったことを示すわけで、
これが他者に対する不信感に繋がってしまわないかが心配です。
事件をさらし上げたりと、メディアや情報ツールの氾濫も影響するでしょうし…
まぁ、ぶっちゃけ、自分なら立ち直れませんね。
他人なんて二度と信用しないだろうな(苦笑)
セカイの破滅でも願って、魔王になろうと誓うことでしょう(by NHKの平清盛)。
そうならないように、誰か一人でもいいので、子ども達の心を優しく包んでもらいたいです。
イジメとそれに関する自殺に関して言えば、ケースバイケースなので一概には言えません。
多くの場合はイジメる側に差別的精神が強く存在していて、そちらが悪い場合がありますが、
イジメられる側が精神的に弱すぎる場合もありますから、線引きは難しいところです。
未熟なコミュニケーションのため、じゃれ合いの延長が暴力に発展する可能性もあり、
例えば、お尻を軽く叩くや蹴るならセーフな感じもしますが、お腹を蹴ったらアウトだったりと、
伝達手段が未熟な故、双方や周囲にとって判断しかねることが多くあります。
難しいことではありますが、それらは個別個別で判断していかざるを得ないでしょう。
現代の世相で往々にして感じるのは、「弱きを助け、強きを挫く」のような勧善懲悪の精神や、
相手を慈しむ「慈愛」の精神が足りないな~、ということでしょうか。
例えば、勧善懲悪だって今に残ってるのはほとんど同じ奴でしょう?
「水戸黄門」「暴れん坊将軍」「遠山の金さん」、その他の現代の刑事モノドラマ、
どれも権力者が悪を挫くものばかりです。
中には大名クラスに向かっていく「鬼平犯科帳」とか、
現代の刑事モノでも悪の政治家や警察上層部と対立するようなものもありますが、
それでもやっぱり彼らは私達にとって「権力者の一味」であることは変わりがなく、
勧善懲悪の精神は弱いように見えます。
「ねずみ小僧」や「清水次郎長」など、一見すると悪の立場の方が勧善懲悪の精神は浮き立つように思えます。
まぁ、そう考えていくと、現代の私達は精神構造さえも官僚組織に囚われていると言えそうですね。
悪から始まる官僚組織からの逸脱した善をもう少し語っても良いような感じもします。
イジメを受ける側、自殺を考えている子どもに関して言えば、
別に学校に行きたくなければ行かなくてもいいわけで、遠慮せずに逃げろということです。
追い詰められた精神では何も突破口は開けず、逃げて一旦落ち着いてからでなければ、
まともな判断はすることができません。
遠慮せずに逃げて引き篭もりましょう(苦笑)
まぁ、でも、結局、イジメは人間の心が弱い以上、決してなくならないわけで、
イジメている側が環境が変わればイジメられるかもしれませんし、
イジメられている側が逆にイジメる側になることも容易に起こり得ます。
子どもの頃は学校という狭い社会の中でしか考えることができないので、
そこでの辛い出来事はこの世の全ての辛い出来事に思えるかもしれませんが、
学校という社会を抜け出せば、そんなことは全く関係なくなるわけで、
イジメられるのが嫌なら学校なんて止めて環境を変えればいいんです。
死ぬくらいなら、そちらの方がマシだし、簡単に死ぬ結論を出す頭は狭量と言わざるを得ません。
別に恨んで死んでも魔王になんてなれませんよ。
自分にその恨みが還ってくるだけで、なんのハッピーにもならんです。
別に大人になれば、特に良いことがなくても平気な顔して生きているわけですし、
自分はもうダメだとか堅苦しく考えずに、なんでもいいから生きろということです。