« 今更ながら | メイン | プロ野球・セパ交流戦が終了 »

最近の刑事ドラマを見ていて思ったのですが、
「犯人隠匿」や「身代わり出頭」を安易に批判する傾向には少し違和感を感じます。
いや、まぁ、ドラマ的にそれらは盛り上げに使われるだけで、
ドラマ的に「悪」となってしまうわけですが、
最近は全否定する傾向が強く、人間的感情までもが蔑ろにされている印象を受けます。
「愛している人を守りたい」、その思いはそれで尊重すべきでしょう。
その行為が結果として罰せられるのは致し方ないことですが、
その感情は否定できないと思うわけです。
それが「情け」なんじゃないですかねぇ。

例え、それが究極的な殺人という行為であっても同じだと思います。
殺人行為を肯定するわけではないですが、
人を殺したいほど憎いという感情や、殺さなければいけないほど思いつめた感情は、
どんな刑罰を用いたところで否定することはできないでしょう。
問題なのはそういった負の感情のままに流されて行為に及ぶことであって、
負の感情自体は否定してはいけないように思います。
負の感情を否定することは、負の感情を感じないのではなく、
負の感情に「気づかない」だけになってしまうからです。

浄土真宗の親鸞聖人が唱えた「悪人正機説」もそういうことを言ったものでしょう。
言葉の響きから誤解されがちではありますが…
誰にだって負の感情はあるわけで、それに気づかないフリをして負の感情に流されるのか、
それとも負の感情に気づき、それと向き合ってどう生きるかを考えるのか、
それが「悪人正機説」の言いたいことではないでしょうか。

感情に任せるままに愚かな行為をしてしまうことは、勿論、批判されるべきですが、
だからといって、感情そのものを否定していては、人間らしい喜怒哀楽を喪失しかねません。
負の感情を安易に否定することは建前だけで生きる偽善を生みかねないだけに、
昨今の流れは少々違和感を感じずにはいられないです。


◆ニュースネタ 混迷する消費税増税法案
私自身は増税には賛成するものの、今回の法案にはとても賛同できるものではありませんが。
だって、上げることしか決まってないんだもの。中身のないものにどう賛成せよと。
もっとも、日本人は決めることが苦手なので、上げることを決めないと中身の話もできないのでしょうが…

根本的に、なぜ消費税増税なのかと言えば、少子超高齢社会だからです。
日本の社会保障は、租税と保険料負担で賄われていますが、
租税の中心は所得税や法人税といった直接税が主で、
保険料負担は年金・医療保険料で運営されています。
どちらも、働いている人、現役世代を対象にしていますから、
負担する現役世代が減り、保険を使うだけの退職世代が増えれば、破綻することは必定です。
そうなると、社会保険の自己負担に加えて、退職世代にも租税負担を負ってもらうことが必要となり、
世代に関係なく負担が来る消費税がターゲットになってくるわけです。

ただ、消費税制度そのものにも問題があり、
低所得者層に相対的負担増となる逆進性の問題、零細小売店が免税される益税問題、
そもそも10%の値上げだけで事足りるのかという問題もあり、
そこら辺が全く解決していない以上、何とも言えないところです。


◆火葬に見る日本人の死生観
今年の4月に天皇陛下がそれまでの土葬ではなく、火葬を希望する旨を発せられました。
むしろ、それまで土葬だったことに驚きを隠せないわけですが、
それだけ遺体の最終処理方法として火葬が定着していることを現しているかと思います。

諸外国ではどうかというと、まだまだ土葬の国も多く、
ある意味、バイオハザード等のゾンビ映画はアメリカやヨーロッパの方が恐怖感が強いでしょうね。
日本で墓場の死体が動き出したといってもリアリティがありません。せいぜい骨骨ロックです。
かつて、ヨーロッパ等でペストのような感染症が大流行しながらも、
日本でも感染症は流行したものの、壊滅的被害をもたらすまでに至らなかった理由として、
土葬ではなく火葬が行われていたことが挙げられるなど、火葬の方が衛生的な面は否めなく、
火葬の費用的問題はあったにせよ、昔から火葬が行われていたことは事実のようです。

それでもヨーロッパ等で土葬が行われる理由として、キリスト教の復活思想があると思われます。
つまり、人間が一度死んでも、「その肉体で」生き返ることを想定しているため、
いつ魂が戻ってもいいように、肉体をそのままにしておくということです。
キリスト教ではありませんが、エジプトのミイラもそういった考えです。

では日本人はどうであったかと言えば、火葬に抵抗感がなかった理由は2つ挙げられるかと思います。
1つは仏教思想によるところです。
仏教では輪廻転生で肉体からの解脱を奨励するため、執着を絶つために肉体を燃やすわけです。
生き返る時は、「別の肉体で」生き返ることを想定しているため、肉体を保存しておく必要がなく、
むしろ、本人や親族が現世に執着する原因となりかねないため、肉体を消失させた方がいいわけです。

もう1つの理由が、日本の八百万の神の思想、火の神「カグツチ」の影響です。
カグツチ自身は母であるイザナミの死因となってしまったため、父のイザナギに殺されてしまいますが、
その血と死体から多くの神々が生まれたと、古事記は表しています。
つまり、カグツチ=火は再生の象徴なわけで、
日本の祭りは昼よりも夜が重視され、火を多く使ったものが多いように、
火は破壊の象徴というよりも、恵みの象徴であり、生命の再生を意味するわけです。
ですから、日本人が諸外国の人と同じように現世への復活を望んだとしても、
火による再生の儀式、つまり火葬を行うという結論に至るわけです。
日本人の間で火葬が広く受け入れられたことは、ある意味で必然だったわけです。

一方で、日本では儒教の影響も大きく、遺体を損傷しないという考え方もあります。
「斬り捨て御免」といった武士社会であっても、命を奪った後の肉体の損壊はご法度で、
仏さんを大事にするという風潮がありました。
これと火葬が矛盾しないかという問題がありますが、
火葬は単なる合理的な遺体の処理方法ではなく、日本人にとって「再生の儀式」なわけですから、
死んだ肉体をそのままに燃やして天に届けることこそが、完璧なる再生の儀式に通じるのです。
日本人にとって、死者の肉体は天へ返すために大事なもので、
火葬を通して死者の輪廻転生の儀式を完成させるわけです。


近年は日本人の間でそのことが忘れられているのではないか、そういう危惧を抱いています。
臓器移植法の改正による脳死者の子どもの臓器提供、
家族の承諾なしに解剖ができる死因究明法の成立…
確かに、どちらも合理的な理由はあります。
でも、そういった日本人の死生観が形骸化することによって、
人間の尊厳を貶めているようにも思えるわけです。
上記のように、単純に火葬といっても、遺体への敬意の念や復活を望む故人への想いがあるわけで、
それを単なる合理的な遺体処理方法として捉えるのは、いささか心が貧しいかと思われます。

教育界で叫ばれている「生命の教育」というのは、一体何なんでしょうね?
日本人に火葬が受け入れられている事実以外にも、
お通夜と葬式を行う日取りが決まっているのも、日本人の生と死の表裏一体性を表しており、
誕生の儀式の逆をなぞって死後の祭事を行っているわけです。
葬式で戒名を付けてもらうのも、誕生後の命名の儀の逆ですし、
3回忌とか7回忌は七五三の逆です。
火葬のタイミングも宗教的理由があり、肉体と精神を結ぶ霊糸線が切れるのが約48時間後とされるので、
お通夜・葬式と時間をかけているのは、そのタイミングを待っているためです。

私はこういうことが「生命の教育」だと思うんですがね。
日本人の宗教を毛嫌いする気持ちは分からなくもないですが、
伝統や文化を理解する上で宗教は避けられないもので、
そこに何があったかを知ることは大事な教育だと思うのですが…
もうそんなことを考える人間も減ってきているんですかねぇ…

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)