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今更ながら

アニメの『C3(シーキューブ)』を見ました。
委員長の上野錐霞がエロ可愛すぎて、もう…
クールで凛々しいし委員長キャラがボンデージ姿ってのも凄い設定ですが、
呪いで物理的損傷では死なないという設定をいいことにやりたい放題してるのが…(苦笑)
錐霞回の第10話なんて、実際は骨が折れまくっている痛々しいシーンなのですが、
そこをシーンカットして編集すると、どう見ても一人遊びしているようにしか…(爆)
第12話で敵に捕まって、内臓をこねくり回されているシーンも(実に痛々しい表現ですが)、
苦悶のシーンが別の場所に異物を突っ込まれているようにしか見えません(爆)
その他にも際どいシーンが満載でしたが、元々がクールで照れ屋なキャラだけに、
恥ずかしがるシーンが多く、あざとさが感じられず、とにかく凄かったです(笑)

内容の方は呪いのアイテムの擬人化という面白い設定ながら、
あまりシリアスには展開せず、ライトタッチに描かれていたのは評価の分かれるところ。
もうちょいシリアスでも良い感じもしましたが。
まぁ、でも、メインヒロインのフィアがヒロインにあるまじき悪人顔をすることもあるし、
そういう意味ではシリアス路線もあるにはありましたが…
それと、1期のOP主題歌が良い感じですね。サビへの入りが非常に好き。
個人的にああいう音程の上下がはっきりしている曲が好きですね。

今は『ベン・トー』を見てます。
スーパーの残り物半額弁当を巡るバトル、という馬鹿馬鹿しい設定ながらも、
その馬鹿なことを真剣に取り組んでいる様が漢を感じさせてくれます。


◆ニュースネタ1 「死刑」は抑止力となるのか?
先日、大阪で通り魔事件があり、
出所後の生活不安から自殺を試みるも失敗し、人を殺せば死刑になると思って事件を犯したとか…
前もありましたよね、死刑になるから事件を起こした、という事件が。
こうなってくると、死刑制度は抑止力になるどころか、
犯罪を助長させているとさえ言えるわけで、死刑の抑止力論は完全に説得力を失いつつあります。

死刑制度が存続している理由として、常に言われ続けているのが「抑止力」です。
生命を奪うという極刑が存在していれば、刑罰を恐れて犯罪を犯さないという理論なのですが…
…納得できますか?

飲酒運転や窃盗といった比較的軽微な犯罪には当てはまるかもしれません。
いわゆる「割りに合わない」ということです。
人生を捨てていない状況で、刑務所に入れられたり、生命を奪われたら、犯罪なんて割りに合いません。
しかし、逆に人生を完全に捨ててしまった状況であれば、人を殺すことも厭わなくなりますし、
そもそもにおいて、そんな損得勘定を考えるほど頭が働いていない場合が多いです。
そんな状況で死刑が抑止力になるのでしょうか。なりませんよね。
死刑の意味を考えられるから抑止力として働くわけで、
考えられない状況で、考えた末でも犯罪に走る思考状態で抑止力として働くわけがありません。

他に死刑制度を存続する理由としては、「目には目を歯には歯を」という被害者の報復精神がありますが、
完璧な裁判制度が存在すれば、それも可能となるかもしれませんが、
杜撰な捜査等による冤罪事件が後を絶たない現在においては、却って罪悪感を生み続けることになりますし、
そもそもにおいて刑罰が被害者のための制度ではないだけに、存続する理由としては弱いです。
あとは、刑務所の維持費用の観点から、終身刑よりも死刑の方が経済的という考え方もありますが、
人の命に経済的も非経済的もあるわけがなく、
それなら食べすぎの人や電気の浪費家を死刑にした方が経済的と言えるわけで、理由としては弱いです。

他の理由がやや非人道的とも思える観点だっただけに、「抑止力」が盛んに言われてきたわけですが、
その考え方がそもそも誤りであることを意識し直す必要があると思います。
なぜ、「死刑」にするのか。もう一度考えて欲しいですね。


◆ニュースネタ2.0 「東電は社員を守らない最低の企業である」
国会の福島原発の事故調査委員会が論点整理を行ったようですが、
東京電力の言い分に乗っかるだけで、政府の過剰介入を批判するものとなってしまいました。
役割上、行政府、とりわけ政府がどうあるべきかに主眼が置かれているのは分かるのですが、
あまりにも一方的というか、東京電力の言うがままのように思えてしまいます。

なにより分からないのが、
東京電力の清水元社長の「退避」が政府の言う「全面撤退」ではなかったということです。
それでは誰が「退避」するんでしょうか? 最低限の人間を残すって、それは誰なのよ?
東京電力の「社員」だけは退避させ、残りの下請け労働者や関連企業の社員は残すということ?
それとも現場のことではなく、東京も危険だから、自分達経営陣が退避するってこと?
誰を退避させようとしたのかが曖昧で、
それじゃ最終的に退避させた結果、誰も残りませんでした、それは全面撤退でしょ?
東京電力の取締役クラスが現地に赴いていて、それで「退避」というなら表現は分かりますが、
誰も行ってない状態で「退避」って、誰を逃がすつもりだったのか意味が分かりません。

そもそもに関して言えば、別に東京電力が全面撤退を申し出ることは不自然ではありません。
一企業人とすれば、作業員の安全が確保されていない状況で、
作業を続けさせるというのは明らかな労働者軽視であり、非難されるべき事柄です。
社員を守ろうと思うのならば、
最低限、安全が確保されるまで「一時撤退」すると判断するのが当然でしょう。
その結果、甚大な放射能漏れで被害が拡散しようとも、それは一企業ではどうしようもない問題です。
一企業であるなら、社員を守ろうとすること、それが是でしょう。
そう考えれば、政府の言う「全面撤退」ではなく、
人員を残すつもりだったとする東電の主張する「退避」は、明らかな労働者の軽視であり、
一企業としてあるまじき判断だったと非難されるべき事柄でしょう。

どうして、そう言わないかと言えば、民意が原発を放置するとは何事だという方向に傾いたからでしょう。
逆に労働者軽視だと批判されていたら、今頃、どうやって言い訳していたんでしょうね?
全く逆になっていた可能性もあります。

そういう観点から考えてみても、政府にしか作業員を残すという判断はできなかったわけです。
勿論、政府の対応も現場の作業員に酷を強いる判断でしたが、
こちらは政治判断で、言い方は悪いですが、国民全体との天秤をかけた上での判断ですから、
より多くの人々を助けるための、緊急的判断だったわけです。
それは政府にしか判断できないことで、それを一企業である東京電力ができるわけもなく、
仮に東京電力が判断していたのなら、今頃は労働基準法違反を問われていたことでしょう。
つまり、一企業として判断できる限界を明らかに超えた事故で、
政府の過剰介入などではなく、政府が介入せざるを得ない事故だった、
普通に考えれば、そう結論付けるのではないでしょうか?
一体、何であんな変な結論になるんでしょうか?

電気料金の値上げや原発の再稼動など、東京電力を始めとする電力会社がこれだけ苦労している理由に、
東京電力の経営陣が指揮・命令権を政府に放棄しなかったことがあるように思えます。
つまり、介入してきた政府に東京電力は対応を丸投げすれば良かったんです。
その時は無責任に思えますが、自分たちの社員を犠牲にする判断はできない、
一企業でできる限界を既に超えていると表明していれば、こうはならなかったはずです。
アメリカの報道で福島原発の作業員を英雄視するニュースが流れて、「あれ?」と思った人は多いのではないでしょうか。
勿論、アメリカの英雄志向というのもありますが、
日本では東京電力の経営者の右往左往と要領を得ない会見が目立つばかりで、
「東京電力の自業自得である」という観点が最後まで抜けきらなかっただけに、
現場の作業員の英雄視が薄まってしまい、国民の電力会社に対する信頼が地に落ちてしまったように思います。
政府に矢面に立たせておいて、協力する形で美味しいところだけ持っていくこともできたんじゃないでしょうか?
アメリカが実際どうやってるのか知りませんが、映画とかだとそんな感じですよね(苦笑)
結局、東京電力は権威にしがみついて離そうとしなかったために、見限られちゃったように思います。

NHKの大河ドラマで『平清盛』がやっていますが、そこに出てくる朝廷貴族が東京電力という感じでしょうねぇ…
そこが彼らの浅ましい失敗だったということです。


◆ニュースネタ2.5 「政治」とは何か? ~野田総理が大飯原発再稼動を国民に説明~
大飯原子力発電所の再稼動に関しては、首相が政治判断をしたのは良かったと思います。
福井県知事に判断を丸投げするわけにはいかないだけに、きちんと態度を表明したことは評価できます。
究極の安全は存在せず、真にエコな電力供給方法もないわけですから、
両者の狭間でどうバランスを取るかは政治が決断することです。
勿論、賛否両論あるでしょうが、グダグダ言ってる間に夏が来て、電力を使うわけですから、
ギリギリになってしまったとはいえ、結論を出したことは良かったと思います。

関東圏に住んでいるので関西圏の状況までは分からないので何ですが、
真剣に電力需給の問題に対応していたのか疑問を持つぐらいでした。
少なくとも、私の周囲や関東圏のTVでは計画停電の恐れによるイベントの自粛の声は聞こえてこず、
野球の夏の甲子園大会やプロ野球の試合などの変更議論も聞こえてきませんでした。
大飯原発を再稼動したところで万事問題なくなるわけでもないですし、
原発再稼動反対を掲げるのなら、もう少し真剣に対策を論じて欲しかったように思います。
対策は誰かがやってくれるから、とりあえず危険そうなので反対しとく、そんな空気のように見えました。

福島原発事故の政府の介入にしても、原発再稼動にしても、政治判断というのは簡単なものではありません。
簡単に答えが出るものは政治判断なんて要らないわけで、それは合理的思考があれば容易に判断できます。
問題は簡単に決められない賛否両論のある問題を、どういう形で決着を付けるのか、
その答えを出すのが政治判断なわけですから、
賛否両論があるのは当たり前で、意見を聞きながらも最終的に決めることが政治ではないでしょうか。
簡単に決められることは政治じゃないですし、決めないのも政治じゃないわけです。
難しい問題を決めることが政治なんです。

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