猫撫ディストーション
WHITESOFTから今年の2月25日に発売された『猫撫ディストーション』をプレイ中です。
何で、今更プレイしているのかと言えば、
WHITESOFTの最新作『ラブライド・イヴ』の発想がなかなかに面白かったからです。
別に最新作を貶すわけではありませんが、『ラブライド・イヴ』は普通の美少女ゲームです。
ただ、違っているのは、メインヒロイン(彼女になるヒロイン)は幼なじみと最初から決まっていて、
他のヒロインはシナリオ分岐によって、主人公・ヒロインとの3P等をしたりするという内容で、
メインヒロイン以外のヒロインが彼女になるシナリオは一切ありません。
3P展開も多少ご都合主義な印象はあるものの、
真面目さは変わっていないので、ハーレム展開のようなバカらしさがなく、リアリティがあり、
かといって、乱交モノのようなアンモラルな雰囲気もない、ちょうどいい塩梅が光っています。
内容的にはそれだけの特に見るべきところもないゲームなのですが、
最近の美少女ゲームでは珍しいその着想点の良さから、過去作をプレイしてみたくなったわけです。
そんなわけで、WHITESOFT2作目の『猫撫ディストーション』に関してです。
現在のところ、結衣・式子・ギズモ・柚の4人をクリアした段階ですが、
このゲームは素晴らしいです、久々の神ゲーです。
私の中ではONE、Kanon、スカーレットに続く高い評価をして良いほどの作品です。
一言で言えば、現象学のテキストみたいな作品で、かといって小難しくもせずに、
端的にストーリーでシンプルに表現した作品です。
現象学的な考えというと、アニメでは『新世紀エヴァンゲリオン』のTV25・26話、
ゲームでは『ONE~輝く季節へ~』のえいえんの世界がその典型で、
シュレディンガーの猫のような考え方は多くの現代SFゲームに採用されていますが、
前者は小難しくなりすぎて物語を破綻させてしまったり、
後者は逆に世界観だけに採用されるだけで、中身としての重要性を失うものがほとんどです。
現象学的世界観をストーリーとしても破綻させず、
作品のメッセージ性としても失わないように表現することは、並大抵のことではありません。
そんな難しいことをやってのけたのが『猫撫ディストーション』という作品です。
『猫撫ディストーション』をプレイする前に知っておかなければならないのが、
「シュレディンガーの猫」のパラドックスとそれに連なる「認識論」です。
量子力学的な見解とかを抜きに、哲学面だけを抜き取って説明すると、
毒ガスが充満するように作られたダンボール箱の中に、一匹の猫を入れ、
毒ガスを注入して、小一時間経った場合に、猫は生きてるか・死んでるかという話です。
普通に考えれば、猫は死んでいるように思えますが、
その結果はダンボール箱を開けて、猫がどうなっているか確認するまで分からないので、
ダンボールを開けていない状態では、猫が生きている可能性と死んでいる可能性の両方が存在します。
それを観察者がダンボールを開けて確認することで、可能性が確定するわけです。
現実的で分かりやすい例を挙げれば、行方不明者の生死と同じことです。
行方不明者は生きているのか死んでいるのか分かりません。
法律的には行方不明でも失踪宣告を受ければ死亡として扱われるわけですが、
それ以外に行方不明者の生死を確定するには、「誰か」が行方不明者の生死を確認する必要があります。
例えば、どこかの国で生きていることが明らかになったとなれば、生存となりますし、
遺体が発見されてしまえば、死亡と確定します。
それまでは行方不明者の生死は確定せず、生きている可能性と死んでいる可能性が重なり合っています。
生死不明という両方の可能性を含む事象が、ある観察者の判断によって事象が確定する、
逆に言えば、ある観察者が判断するまで事象は確定しない、
それが「シュレディンガーの猫」の哲学的側面です。
『猫撫ディストーション』はまさに「シュレディンガーの猫」の箱の中の物語です。
まぁ、だからといって、ダンボールの中で死にそうな運命に遭うとかそういうのではありませんが(^^;
不確定な世界の中で、まったりとした日常を過ごす物語が描かれています。
簡単に物語を説明すると、
とある実験(現進行段階ではまだ未確認)によって、
現在の意識を持っている主人公、3年前に死んだはずの妹、3年前の人格を持つ姉、
結婚する前(25年前?)の人格を持つ父と母、
そんな本来は重なり合わない可能性の家族5人が家族として過ごす日常を描いた物語です。
家族との会話の中で、物事の見方、認識論を難しくなりすぎない程度に分かりやすく説明してくれます。
認識論は形而上学的な議論で、どうしても言葉遊びになりがちなのですが、
『猫撫ディストーション』ではそんな言葉遊びにならない程度で説明を散逸させ、
その中で家族のふれあいを描きながら、気持ちの良い形で表現してくれます。
このゲームをプレイするだけで、現象学が分かるんじゃね、というぐらいの分かりやすさ、
ストーリーとしても両立しており、その絶妙な匙加減の上手さが名作たる理由でしょう。
あらかじめ注意しておきたいのは、そんな家族を中心とした物語なので、
これが美少女ゲームである以上、攻略対象キャラも家族が中心になってくるわけで、
幼なじみの柚や猫が人間化したギズモ以外の3人のヒロインはいずれも家族、
母・姉・妹との近親相姦の描写があります。
そういう表現が嫌いな方は避けざるを得ないかと思います。
まぁ、Hシーンも濃い方ですし。お母さんは処女でロリってどうなんだろうと思った(^^;
今回は紹介に留めて、ネタばれを含む感想はまた今度に。
『ONE~輝く季節へ~』等をプレイして認識論に興味のある人には、
ぜひともプレイしてもらいたい名作です。
◆「認識論」の説明とその必要性
本当は上記の解説に挟み込もうと思ったんですが、長く小難しくなったので後述という形にしました。
『猫撫ディストーション』等で扱われている「認識論」は簡単に言えば以下のようなものです。
(以下、追記へ)
通常、私達は世界がまず存在し、それを私達が知覚していると考えます。
もし、自分が五感を完全に断ち切ってしまったとしても、世界は存在し続けますし、
自分の認識の及ばない地球の裏側においても世界が存在し続けることを当たり前のように知っています。
でも、そうではなく、逆に私という観測者がいるからこそ、世界は存在するのではないか、
そう考えることもできるかもしれません。
後者の考えでは観測者同士(個人)が言葉によって繋がり合う、そうやって世界を共有していると考えます。
言うなれば、鶏が先か、卵が先かという議論と同じようなものです。
より適切に言うなら、客観が先か、主観が先か、ということです。
どうしてこういう考え方が出てきたかといえば、正確な所は私も理解していませんが、
おおよそ以下のような理由だと思われます。
哲学の世界で長く議論となっていったのか「主観」と「客観」です。
「客観」を突き詰めたものが物理科学でしょう。現代の私たちの常識的世界観です。
けれども、「客観」だけでは説明できないものもあります。
それは心理学や社会科学などが扱う「主観」に関わるものです。
具体的な例を挙げるなら、私達は幸せかどうかをどう判断しますか?
お金持ちなら幸せ? 名誉があれば幸せ? そうとは限りません。
飢えた時代に私達は裕福になれば幸せになれると信じて「客観」を突き詰めましたが、
そこに待っていたのは格差や精神的疎外といった問題でした。
財産をたくさん持っていたとしても、それが会社だったり家・土地だったりして、
自由に処分することができなければ、幸せだと感じられないかもしれませんし、
もし自由に処分できたとしても、周りには誰もおらず、
一人ぼっちだとしたら、幸せだと感じられないかもしれません。
結局、「客観」のみで個人の幸福度を判断することはできず、
その個人が客観的事実をどう捉えているか、そういう「主観」が主な判断材料となります。
では、「主観」を計測する上で、地球の裏側に存在する人の生死は重要でしょうか?
身近な人の生死は個人に影響を与えても、遠く離れた誰かの生死は直接的に影響はしません。
自分が株を持っている会社のトップが死んだ事実は財産に間接的な影響を与えるかもしれませんが、
あくまで間接的な影響に留まるだけです。
そうやって、物理科学でいうところの観測に必要な「理想状態」を作っていたとしたら、
その観測者が認識できる範囲以外は考慮する必要がないということになります。
つまり、それが認識論を導入する意味合いです。
美少女ゲームをプレイする人なら、「モブキャラ」は分かるでしょう。
立ち絵のない脇役キャラクターが、主人公やヒロインの動向に影響を与えるでしょうか?
…まぁ、中には立ち絵が面倒くさくて、手抜きで描いていないだけというケースもありますが、
ほとんどの場合はモブキャラの動向なんて注目する必要性はありません。
あのモブキャラが頑張ったから、主人公とヒロインの運命は変わったのだとは思わないでしょう。
つまりはそういうことで、主観を捉える上では画面外の動向なんて関係はなく、
画面内の動向だけに気を配ればいいわけです。
世界が先にあるのか、認識が先にあるのか、なんてことは、ぶっちゃけどうでもいいことです。
けれど、物理的な客観的事実だけでは語れないものもあるのは事実です。
物理的に神様が存在するとは言うことはできませんが、
少なくとも私達が神様と表現する概念が存在し、それが人々に影響を与えている事実は存在します。
物理的に幽霊が存在するとは言うことはできませんが、
少なくとも私達が幽霊と表現する概念が存在し、それが人々に影響を与えている事実は存在します。
かつて、それらは物理科学偏重の風潮から「非科学的なもの」や「時代遅れの因習」として退けられましたが、
どんなに必死に否定したところで、人間の信仰心や憧憬、尊敬といったものを消し去ることはできず、
それらが人間の社会性を支えている一側面であることは間違いありません。
そこに「主観」を軸とした認識論を用いる必要性があるわけです。