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婉曲的な表現

クイズ番組とかを見ていると、
若い芸能人とかが簡単なことわざの問題を間違えて笑っちゃうことがありますが、
だからといって自分が日常会話の中でことわざや故事成語を使っているかと考えてみると、
そういうわけでもなかったりするので、他人のことは笑えないな~と思ってしまいます。
人の振り見て我が振り直せ、といったところでしょうか。

そんな感じで、どうも今日の言語感覚として、婉曲的な表現が嫌われ、
直接的な表現が好まれているように思います。
まぁ、必ずしもそうとも言い切れず、一昔前の女子高生の変な略称だとか、
ネットスラングだとか、その分野・年代層に特異な言い換え表現はあるものの、
全体としてみると、婉曲的な例え表現よりも、直接的な表現が好まれている節があります。
「美味しい」とか、「かわいい」とか、
もっと他に表現があるだろうと思いつつも、この一言で済ませてしまう風潮があります。

今回の鉢呂経済産業大臣の「死の町」発言は、少なからずこの言語感覚が影響してるように思えます。
文字通りに「死」の町と取るか、「町の死」と婉曲的に取るかで衝撃度は異なります。
たぶん、現在の人の言語感覚からすれば、前者に受け取ると予想され、
文字通りにペンペン草の一つも生えていない荒野をイメージしてしまうのでしょう。
しかし、古来の日本人の言語感覚、「死(レ点)町」のような漢文調の思考からするなら、
「町の機能が失われた町」と受け取ることになります。
まぁ、それでも原発事故が政府の責任だとするならば、
その原因を作った者の発言としては不穏当ということには変わりないのですが、
誰の責任かと言われれば非常に難しく、第一には東京電力の責任ですし、
第二には震災対応を提言しながら黙殺した自民党政権ですから、ちと微妙な所ではあります。
それはひとまず置いておくとして、適当な発言でないことは否定しないものの、
不適切な発言だとそこまで騒ぐほどのことかと考えると、そうでもないように思えます。
これはやっぱり文字通りに受け取ってしまった現代日本の貧しい言語感覚故でしょう。

まぁ、でも前述のように、婉曲的な表現感覚が完全に死んだとも言い切れません。
私達が意識していないで使っているその典型は「あだ名」でしょう。
名前を直接呼ぶのではなく、名前の一部だけを強調して取り上げたり、
時には名前以外の身体的な特徴等を使って呼んでみたり…
それらのあだ名自体の良し悪しは別にして、
頭の中で名前とあだ名が頭の中で連関して表現されています。
つまり、頭の中で思考の飛びともいうものがあって、それが婉曲的な感覚に繋がってきます。

私はことわざや故事成語を日常会話で使うことはほとんどないものの、
家族や親しい友人との会話では、直接的に表現したいものの名前をわざと避け、
そこから第一にイメージしたものをわざと言ってみたりと、
言い換え表現とは違いますが、言葉の連関を利用した思考は行っています。
現代の感覚からすると、これらの婉曲的な思考や言い回しはまわりくどく思われるでしょうが、
直接的な表現ばかりだと、文字通りに受け取ってしまい、いざこざが絶えかねません。
ある種の奥ゆかしさ、悪く言えば風刺的な嫌味もあった、
婉曲的な表現を取り戻す必要があるように思えますね。


◆ニュースネタ 鉢呂経済産業大臣が辞任
上の文章を書いているうちに、鉢呂経済産業大臣が辞任したとのことで…
そういや、某ニュース番組が「福島再生プロジェクト」と銘打って特集を組んでいました。
…ん? 再生ということは現在は…?
みんな心の中では「死の町」とか思っているのに、他人が言うと文句を言うということなのか。
言語能力の貧しさに加え、他人に厳しくなディスコミュニケーション(むしろデスか?)に辟易しますな。


◆神ゲーの話 『猫撫ディストーション』
WHITESOFTから今年の2月25日に発売された『猫撫ディストーション』をプレイ中です。
何で、今更プレイしているのかと言えば、
WHITESOFTの最新作『ラブライド・イヴ』の発想がなかなかに面白かったからです。
別に最新作を貶すわけではありませんが、『ラブライド・イヴ』は普通の美少女ゲームです。
ただ、違っているのは、メインヒロイン(彼女になるヒロイン)は幼なじみと最初から決まっていて、
他のヒロインはシナリオ分岐によって、主人公・ヒロインとの3P等をしたりするという内容で、
メインヒロイン以外のヒロインが彼女になるシナリオは一切ありません。
3P展開も多少ご都合主義な印象はあるものの、
真面目さは変わっていないので、ハーレム展開のようなバカらしさがなく、リアリティがあり、
かといって、乱交モノのようなアンモラルな雰囲気もない、ちょうどいい塩梅が光っています。
内容的にはそれだけの特に見るべきところもないゲームなのですが、
最近の美少女ゲームでは珍しいその着想点の良さから、過去作をプレイしてみたくなったわけです。

そんなわけで、WHITESOFT2作目の『猫撫ディストーション』に関してです。
現在のところ、結衣・式子・ギズモの3人をクリアした段階ですが、
このゲームは素晴らしいです、久々の神ゲーです。
私の中ではONE、Kanon、スカーレットに続く高い評価をして良いほどの作品です。
一言で言えば、現象学のテキストみたいな作品で、かといって小難しくもせずに、
端的にストーリーでシンプルに表現した作品です。
現象学的な考えというと、アニメでは『新世紀エヴァンゲリオン』のTV25・26話、
ゲームでは『ONE~輝く季節へ~』のえいえんの世界がその典型で、
シュレディンガーの猫のような考え方は多くの現代SFゲームに採用されていますが、
前者は小難しくなりすぎて物語を破綻させてしまったり、
後者は逆に世界観だけに採用されるだけで、中身としての重要性を失うものがほとんどです。
現象学的世界観をストーリーとしても破綻させず、
作品のメッセージ性としても失わないように表現することは、並大抵のことではありません。
そんな難しいことをやってのけたのが『猫撫ディストーション』という作品です。

ここから「シュレディンガーの猫」や「認識論」の話になって、やや長文となってしまうので、
詳しい話はタイトルを変えて、また明日アップしておくことにします。
今日はこれにて。

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