« ん~。 | メイン | ラッキー捕縛 »

ラッキー

脱走したそうです<昨年お騒がせた噛み付きサル
静岡県三島市の楽寿園の檻に入れられて飼われていたようですが、
ストレスから円形脱毛症になったりと、健康状態が心配されてましたが、
そんな生活に耐えかねてか、檻から脱走、逃げちゃったようです。
目撃情報によると隣の長泉町にいるらしいとのこと。
意外と行動範囲が広いだけに、またしばらくお騒がせになっちゃいそうです…
楽寿園の生活で反省して人を噛むのは止めるのか、
逆に恨みに思って再び噛みつくのか、一体どうなりますか…
つーか、ちゃんと管理しとけよ… 不注意すぎだろ…


◆ライオンズネタ 春季キャンプの1・2軍振り分けが決定
そういえば、ライオンズ日記の方、最後の週の日記がアップされてませんでした…
先日、ようやく気づきました(苦笑)
遅ればせながらアップしておきました。
クライマックスシリーズは思い出したくもないので、書いていません。もはや闇の中。

話を戻しまして、春季キャンプのA班・B班が発表されました。
A班で注目なのは、大石投手、牧田投手、秋山選手、林崎選手のルーキー4人。
林崎選手は少し意外でした。内野のユーティリティプレイヤーとして高く評価されてるのかな。
打撃面では佐藤友亮選手のように、守備面では阿部選手のように、
チームにとって必要不可欠な選手に育ってもらいたいです。

他に抜擢されたのは、2年目の菊池雄星投手、3年目の中崎投手でしょうか。
特に中崎投手は意外でした。左腕なら武隈投手がA班と思っていただけに。
地元の宮崎枠といった面もあるのでしょうか。
チームとしてはリリーフ左腕が不足していますが、
菊池雄星投手と切磋琢磨して、チームを支える先発左腕に育って欲しいです。

逆にB班になってしまった主力は、
岡本篤志投手、後藤武敏選手、大崎選手、坂田選手。
坂田選手は秋季キャンプの怪我でしょうが、他の3人はよく分かりません。
まぁ、体が元気なら、実戦時に呼ばれると思うので、頑張ってもらいたいです。


◆ゲームの話 エロゲのストーリーを教えてもらうスレ
なんとなくネットを徘徊していて、
エロゲのストーリーを教えてもらうスレまとめwiki(Ver2.0)を発見、
Ver1.0の頃に見たことはありましたが、今ほど充実していなかっただけに、
なんとなく読みふけっちゃっています。
基本的には美少女ゲームはしっかりとプレイしますが、
プレイしたゲームでも気に入ったヒロインだけクリアして放置されているものや、
興味は沸きつつも、自殺やグロネタが満載だと嫌なので見送ったりしたものもあって、
読み物としてなかなかに重宝します。
掲載されているのはシナリオ重視か猟奇・サスペンス系のゲームが多いので、
中には頭狂ってんじゃないのかと思って欝になることもありますが、
かなり面白い内容のものも多いです。
…つーか、なんでライターは自殺ネタとか好きなんだろうか…
RPGゲームで開始直後に起こされて「誕生日迎えたから魔王を倒しに行け」と言われ、
どうせ殺されてしまうんだと絶望視して欝になって自殺となり、即ゲームオーバー、
そんなゲームがあったら叩き割りたくなると思うんですが…

話を戻しまして、読んでいて良いなと思ったのは、
「きっと、澄み渡る朝色よりも、」と「そして明日の世界より」でしょうか。
原画もそうなんですが、話が綺麗です。誰でも安心して読めます。
悲しい話ではあるものの、思わず読み進めてしまったのが、
「SwanSong」と「河原崎家の一族2」。
ここのネタバレストーリーに加えて、ASTATINEというサイトのレビューを合わせると、
なかなかに興味深く読めます。
グロ系では「ゴア・スクリーミング・ショウ」が意外と面白かったです。
まぁ、絶対にプレイしようとは思いませんが(^^;
読み物として面白く、考えさせられた作品は、
「天使憑きの少女」「雪影-setsuei-」「装甲悪鬼村正」。
特に「装甲悪鬼村正」は凄いと思いました。プレイしようとは思わないけど。
小説版か漫画版は読んでみようかなとは思うものの、本編のを描いたのがいいなぁ…
以下、その3タイトルのストーリー説明を読んでの雑感です。
ネタバレありにつき、以下へ続く。


●「天使憑きの少女」 ネタバレあり

この話は、最終的に脳死患者の臓器移植をするというストーリーなのですが、
その過程で賛成・反対の両者の葛藤を描いているようですが、
最終的には臓器移植マンセーとなっているのは残念でした。
ぶっちゃけ、そこまで霊的なものを扱いながら、ドナー側をスルーなのは変じゃね、と。
幽霊が設定で出てくるのならば、肉体と霊魂を結びつける霊糸線もあるでしょうから、
霊糸線が切れる前に臓器取り出す脳死患者の臓器提供は、
ドナー側の霊体からすると生きたまま体を切り刻まれ、その痛みに悶絶することを意味するので、
一気にホラー・スプラッタ化すると思われるのですが…。
あと、このゲームのケースは特殊だからあまりツッコミませんが、
脳死患者の霊的意思があんなに薄弱か?と思っちゃいます。
それは却って植物人間状態の人や、認知症や知恵遅れの人の軽視に繋がっている印象さえ受けます。
思考能力と情動、魂としての情動は別個に考えた方がいいんじゃないの?と。
植物人間状態の人も、脳としての思考能力は失われたとしても、
魂としての情動を感じられると考える方が、人として優しくなれるんじゃないでしょうか。

まぁ、こういうゲームだと知っていたので、興味ありながらもスルーし続けてきたのですが、
アニメのエンジェルビーツも私的orzという感じだし、
この脳死者の臓器提供の美談化の流れはすごく微妙に感じています。
勿論、善意で覚悟ができている方の決断は尊重すべきだし、
移植そのものに反対しているわけではないのですが、
臓器提供拒否が悪と糾弾されかねない社会が到来が不安でなりません。


●「雪影-setsuei-」 ネタバレあり
ストーリーの根幹に関わってくるわけでもないようですが、
言い伝えとともに「食人」表現が出てくるようです。
今回はそれに関連して、食人が罪か否かを考えてみようかと思います。

少し記憶が定かではありませんが、食人のニュースは現実にも聞きます。
飛行機か何かで雪山に不時着し、食料がなかったために、
死んだ仲間の肉を食べながら生き延び、救出された後にそれを告白し、
ローマ教皇がその行いを認めたという話が現実にありました。
法律的には緊急避難というものが認められていて、
自己や他人の生命を生かすために、緊急の場合で他の代替手段がない場合では、
他人の生命を利用することも罪に問われない場合があります。
例えば、船が難破し、一人しか掴めない板に捕まっていたところ、
他の人間がその板に掴もうとして、沈みかけた場合に、
その人を蹴飛ばして、結果溺れて死んでしまった場合にも罪は問われないということです。
食人というと生理的な嫌悪感を抱くこともありますが、
それが非常時で他にとりうる手段がないのならば、個人の選択に任せられて良いかと思います。
一応、緊急避難の原理からいえば、
他に生き物や死体がなく、食べられるものが全くない状態の2人っきりであれば、
相手を殺して食べることも許容されるかもしれませんが、
それはさすがに嫌な感じがしちゃいますね(^^;

無論、これまでも語ってきたように、認められるのは緊急時で他に方法がない場合に限定されます。
ですから、例えば「沙耶の歌」みたいな形の、
美味しいから(そのゲームでは味覚の変化故、美味くないはず)は認められません。
所謂、ホラーの猟奇的な食人行為は当然ですが、認められません。
そういうケースは殺人が付いて回るでしょうが、
死体の肉を楽しみとして食べた場合には死体損壊罪になると思われます。

そうやって突き詰めて考えていくと、私たちが他の動物の肉や魚を食べることはどうなんでしょうか。
私たちが生きていくため、他の生命を奪って食事にすることはやはり認められるでしょう。
しかし、それが釣りや狩りといった狩猟行為そのものを楽しむにすぎず、
それを食材として扱わない場合や、
生きる云々抜きに贅沢な食事として楽しむような行為は、倫理的にどう考えるべきでしょうか?
私たちが食人行為も認められる場合があると思うのは、
それをしなければ生命が失われるような場合で、
そこにある種の神聖さ、つまりは死肉への感謝がある場合でしょう。
それと同様に、私たちは食材に対する感謝の意を常に抱いていなければいけないと思われます。
狩猟行為をするにしてもそう、食材への感謝があるならば、乱獲など行えないはずです。
楽しみとしての贅沢がどれだけ許容されるのか、
食が溢れる現代の日本人は、それを考えなければならないように思います。


●「装甲悪鬼村正」 ネタバレあり
1章を読んだ時点でもうゲームをプレイする気持ちがなくなりました…不条理すぎ…
でも読み進めていくと、その不条理さにも意味があることが分かり、
全部読み終えると、凄い作品なんだなと驚かされます。
まさに目から鱗、やられたといった感じです。
…まぁ、ゲームをプレイしようとは思いませんが。絶対、1章で挫折する…

このゲームのポイントは「善悪相殺」という村正の意味、
1章や2章といった序盤には善良な市民までもが殺され、
あまりにも不条理、まさに悪鬼の所業と思わされるのですが、
中盤から終盤にかけて、なぜ「善悪相殺」なのかが明かされるに連れて、
不条理であったものの中に、条理が発見されていくのが見事です。
「正義」とは何か。「人を裁くこと」とは何か。
裁判員制度が導入され、市民が法に触れる機会が多くなった今日では、
すべての人に考えてもらいたいテーマです。
一言で言えば、ドストエフスキーの「罪と罰」みたいな作品で、
多少、表現上、行き過ぎな面があるとは思うものの、
考えさせられるという意味では、非常に素晴らしい素材だと思いました。

結論から言いますと、絶対的「正義」はないということです。
ここでの「正義」は普遍的な正義ではなく、
所謂一つの私たちが口に出す個人的正義を指します。
人を救うという正義の行為が逆に戦いを終わりのないものにしてしまったり、
正義の名の下に人々が先導されてしまったり、
そういった「正義」の危うさが非常に上手く表現されていると思いました。
これはこうやって書くよりも、物語を追っていった方が分かりやすいです。
私が今まで触れてきたものの中では一番分かりやすかったです。
正確な表現をすれば、私たちが口にしている「正義」は「信念」なのでしょうね。
あくまで個人的に過ぎないことの方が多いです。

そういった視点に立ったとき、「善悪相殺」という考えは見事です。
似た感じのものに「喧嘩両成敗」がありますが、元々の意味がどうだったかは分かりませんが、
現在使われているような用法で考えますと、村正の善悪相殺とは異なるように思えます。
一番しっくりくるのが「衡平」、より日本的に言えば「和解」「仲裁」でしょうか。
二者どちらが正しいのか、ゼロか100かの所謂「裁判的決着」ではなく、
両者のバランスをいかにとるかという調整の精神、それが「善悪相殺」の精神です。
悪を一つ斬ったら、善を斬る。
それによって両者が己の愚かさを知り、剣を収め、手を取って歩くチャンスを作る、
それが村正で語られた善悪相殺の精神です。
今までのアニメでいえば、伝説巨神イデオンがそんな感じでしたよね。
私たちは現実ではそういった「衡平」の精神を意識することなく使っているのに、
ニュースで事件や裁判を見聞きすると、つい善か悪かで考えがちになってしまいます。
勿論、裁判員裁判ではそういった判断の仕方も必要となるのですが、
同時に量刑も決めるという点から「衡平」の精神も伴っています。
「正義」と「衡平」、イギリスの法体制がちょうどそういう形なのですが、
私たちはそういった考えを意識していかなければならないように思います。

まぁ、そうやって考えていくと、1章・2章とかの「善悪相殺」はやや疑問の残るところ。
悪に対する復讐目的でお願いをした上での「善悪相殺」は分かりやすいのですが、
自分から悪を斬っておいて、他の善を奪うってのは少し曲解の感があります。
そこはあまり突き詰めて考えない方が良さそうですね。

「衡平」の精神ともう一つ重要な要素なのが、「裁きとは何か」ということです。
復讐編の方ではこの点が上手く表現されています。
「善悪相殺」を行っている湊斗景明、彼が全てを終えた時に望むものは何なのか、
彼にとっての救いとは何なのかということです。
彼の求めているものは「裁き」、罪が認められ、罰を与えられることです。
人は何故裁かれるのか。
裁かれる者以外にとっては、犯罪者に罰を与え、社会的安心を得たり、
それによる犯罪予防効果を期待するわけですが、
逆に裁かれる者にとっては、罪と罰は何を意味するのか。
罪を感じている者に、罰を与えなかったり、罪そのものを問わないことは良いことなのか。
罪を問われ、罰を与えられることが救いとなる場合もあります。
キリスト教における懺悔はそういった救いでしょう。
「雪影」の部分で書いた食人の例で言えば、
それを黙っているのではなく、告白し、多くの人々にその罪を懺悔したことが、
彼らの救いとなったことは間違いありません。
逆に、「雪影」で描かれたように、村人たちがその歴史を闇に葬り去り、
一切触れようとしない、それが伝統的な日本人の価値観となってしまっているわけですが、
そういった口封じが救いとなるのかどうか、否、ただ重石として乗りかかり続けるだけです。
犯罪者は何故裁かれなければならないのか、
それは犯罪者にとっての罪の懺悔であり、人間として更正する一手段であることを、
私たちは意識しておかなければなりません。

殺人事件の遺族が犯罪者を是が非でも死刑にして欲しいと叫ぶケースがあります。
そんな時に上に書いたようなことを考えてもらいたいです。
「善悪相殺」なら死刑でいいじゃん、そういう簡単なことではありません。
私たちが犯罪者を裁く正義とは何なのか、どこにあるのか、
そして、犯罪者を死刑とすることが犯罪者の将来にとって望ましいことなのか、
そういった視点でも考えてもらいたいです。
私の考えを言えば、犯罪者は裁かれなければならないというのが、
私たちの共通の認識であることに正義の源泉があり、
それが法律に基づいて客観的に適切な方法で適切に行われるというのが正義の条件であり、
過った行いをしてしまった犯罪者が私たちと再び向き合っていけるかどうか、
その可能性は全くないのかどうか、そこに至って初めて死刑が出てくると考えます。
そういった考えがヨーロッパ等で根強い死刑廃止の論理でしょう。
キリスト教の懺悔の精神が根付いているという意味でもヨーロッパがそう考えるのはよく分かります。
未だに犯罪予防的な観点しかできない我々が死刑制度に縛られているというのは、
情けないと思うと同時に、無理もないのかなと思ったりもします。
懺悔の精神を私たちは学ぶべきなのかもしれません。


以上がそれぞれの雑感です。
最後に、あまりにもあんまりだと思ったのが「車輪の国、向日葵の少女」。
ゲーム開始30秒後に殺されて、以降登場しないキャラって…
ファンディスクでおまけストーリーもあるようですが、やっぱり不遇。
美少女ゲーム至上、もっとも(出番的にも)恵まれないヒロインっすね。
いや、ヒロインというのは適切ではないけれど、
サブキャラの立ち絵ありでは間違いなく可愛そうなキャラでしょう。
車輪の国は村正とは逆に法的視点があると楽しめない感じがしたなぁ…

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)