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沖縄代表・興南高校が春夏連覇

高校野球甲子園大会は沖縄代表の興南高校の春夏連覇で幕を下ろしましたね。
沖縄県勢初の夏優勝ですか。見事でしたね。
大会前に沖縄県大会終了後から甲子園大会までの間に、
練習試合を行ったことで高野連に注意されることもありましたが、
沖縄県大会の終了の早さを考えれば、それもまた準備の一つだったのでしょう。
あらゆる状況を想定した豊富な練習量で各校を圧倒した
興南高校の野球にあっぱれをあげたいです。

興南高校の強さは、監督さんが「準備」と言っていたように、
豊富な練習量にあったと思います。
今大会で目立ったのは打線の強さ、強烈な打球が相手の守備陣を苦しめていました。
逆に守備では堅実なプレーに徹し、大きなミスがありませんでした。
他校がちょっとしたミスから集中力を失い、大量失点していたのに対し、
興南高校はそういったことがありませんでしたからね、よく鍛えられています。
エースの島袋投手も春ほど評価できる内容ではありませんでしたが、
連投を苦にしない屈強なスタミナには驚かされました。
細かいコントロールや武器となる変化球が存在しないことなど、
即プロを目指すには物足りない面が多いことも確かなのですが、
投手として最も大切な下半身の強さ・スタミナを持っていることは大きな魅力です。
技術面はこれから学んでいけばいいわけですから、
体の強さがあるというのは何よりも大きな武器ですよね。

沖縄県勢初の夏の大会優勝、そして春夏連覇、
偉業を達成するだけある「強さ」を持ったチームであると感じました。
興南高校の皆様、優勝、おめでとうございます。

あとは東北勢だけですか。
今大会の仙台育英と聖光学院には期待していたんですがね~
いずれも興南高校の強さに敗北。残念でした。
聖光学院にはプロ注目右腕の広陵・有原投手に投げ勝った歳内投手と、
試合が決した後に興南相手に好投した芳賀投手という2人の2年生投手がいるだけに、
この秋・来春・来夏と東北勢の躍進を期待したいところです。

他にも今大会は1・2年生の活躍が目立ちました。
報徳の田村投手や九州学院の萩原選手等々。今後の成長が楽しみになりますね。
一方、3年生は小粒だった感は否めないです。
広陵の有原投手が一番評価が高く、次いで島袋投手と成田の中川投手といった感じか。
中川投手は投げるたびに良くなっていきましたね。
だんだんとリリースポイントが前のほうに来て、涌井投手のような形になっていきました。
まだリリースが不安定な感は否めないものの、フォームが固まってくると面白いですね。
野手では履正社の山田選手が走攻守にアピール。大型遊撃手は貴重なだけに注目か。
個人的には関東一高の宮下選手に雰囲気を感じました。
荒削りではあるものの、父親以上の長打力を秘めている感じがしましたね。
あとは北照の又野投手を野手として獲得する球団があるぐらいでしょうか。
昨年までと比べると、少々小粒な感じはしています。

それと前回書きましたが、ピッチャーライナーが凶器と化している感が強いです。
今大会で3回~4回ほどありましたか、ライナー直撃は。
何度も言うようですが、このままでは高校野球の投手が、
世界でもっとも危ない職業だと言われかねないだけに、道具の再検討を願いたいです。


◆ニュースネタ 脳死者の臓器移植問題
2例目は、生前に本人の意思表示が判別できないままに、
家族の了承だけで臓器移植が行われてしまったようです。
…なんかもうなし崩し的になってきたなぁ…
本当の脅威はもう少し先だと思っていたけれど、
私の予測は加速度的に当っちゃいそうな感じですね。
移植されたくない人は体に「脳死移植反対」とか彫ってないとマジダメかも(苦笑)

こういう形で家族の了承だけで臓器移植が行われてしまうと、
本人の意思表示は全く意味を持ってきませんよね。
どんなに反対していたとしても、それを意思表示するのは家族以外にありえないわけで、
裏を返せば、「家族さえ説得すれば、どうとでもなる」わけですから、
本人の意思表示などないも同然です。
今は少数の例だから家族も拒否の判断ができるでしょうが、
これが一般化し、同意しないことが非人道的であるかのように医師から言われれば、
それでも拒否するという判断が家族にできるでしょうか。
それこそエホバの証人の輸血拒否事件のように、明確で断固とした意志がない限りは、
なし崩し的に許可せざるを得なくなっちゃいますよ。
医者の方々には社会的な観点をもっていただき、
本人と家族の主体的な判断を犯さないようにしてもらいたいです。
…でもそれをチェックするための手立ては存在しない。
仮に本人が生前に反対の意思を持っていたとすれば… 臓器泥棒だよな。

あと怖い考えなのが、「臓器」=人間と考えてしまうことです。
唯物史観で肉体が滅びれば終わりと考えているのならば、
臓器が他の人のために役立ち、「臓器が生き続ける」ことに意義を見出せるのでしょうが、
それじゃ臓器は人なのか?ってことになってきます。
阿部定は先見の明を持っていたということなのでしょうか。
チンコ切り取って愛せば、その人を愛することになるのですから(苦笑)
人間の単位をパーツで考えることは、人間の崩壊を意味します。
臓器売買に容易に繋がっていく危険な考え方だと言えましょう。
脳死者の臓器移植に許諾した時点で、その人は「死んだ」んです。
臓器は誰のものでもない、摘出された時点で誰のものでもない、
本人のものでもない「何か」なわけです。
そこは絶対に履き違えてはいけません。

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