■費 文偉
名は禕。
字を見ると、いかにも文官って感じがする。蒋琬亡き後の蜀のトップ。
蜀という地における内政と軍事の両立の難しさを感じ取っていたのか、
姜維の北伐をたびたび諌めている。
兵法にも通じていたらしく、蜀に侵攻してきた魏軍が、彼の名を聞いただけで退却したという話もある。
軍を起こす気がないわけではないという記述は、
蒋琬の項で書いてあるとおりである。
実は最初はそれほど人に認められてはいなかったらしいが、
諸官の末席だったころに諸葛亮に抜擢されて、人々にも認められるようになったという。
諸葛亮の生前は、使者役・留守役・参謀役と東奔西走。孫権にも有能さを称えられた。
また、孔明も苦しんだ仲の悪い魏延・楊儀の仲裁役というのは演義のとおり。
前述のとおり言葉で姜維を止めることも出来ていることからも、
武人・文人両方から人望があったといえる。
事務処理能力については
董允の項で述べているとおり。
性格は磊落で、そのことが武人からも人望があったことに繋がっているかもしれないが、
死に際にはそれが災いしている。
投降してきた敵将にも分け隔てがなかったため、宴席で魏から下ってきた武将によって刺殺された。
この他にも、人を見る目という点で疑問点を持たせる事実がある。
費禕没後、本格的に黄皓らによる専横が始まるが、
その黄皓が頭角を現したのは、費禕が抜擢した
陳祗
という人物の協力があってのこと。
確かに有能な人物ではあったようだが、その性質を見抜けなかったのは明らかに失点といえる。