■董 休昭

名は允。

正史では董和の子だが、親子で別々に伝が作られている。そういった点で非常に珍しい。
注釈人の斐松之は、董允の功績・官位が董和を大きく凌いでいるからではないかと推測している。

政治に関しての功績が高く、蒋琬亡き後、費禕の後任で侍中に昇進した。
その侍中の仕事を董允がやるようになったときのこと。
前任者の費禕と同じ速さで仕事をしようと試みたらしいが、10日と経たずに事務は停滞してしまった。
休むまもなく頑張っては見たものの、全く及ばなかったという。
その時に嘆息して自分の能力を嘆いている。
費禕は、仕事の傍ら休憩や遊びにも充分に手をつけていた。想像にさえ及ばない領域である。

費禕と比較される話をもう一つ。
許靖の葬儀に出かけたときの事。費禕と董允は、董和の命で車で参列したのだが、
他の参列者の中に車のものがほとんど見当たらない。
これを恥じ入る董允に対し、費禕は平然と振舞っている。
後に従者にこのことを聞いた董和は、
「両者の優劣が今ひとつ分からなかったが、これでよく分かった」と語ったという。

しかし董允も負けてばかりではない。
蜀では、諸葛亮・蒋琬・費禕・董允を「四相」あるいは「四英」と尊称しており、
「人の本質を見抜く」という点と「厳しく主君を正す」という点では4人の中で随一。
諸葛亮に勝るとも劣らない。
反面、費禕は、特に「人の本質を見抜く」というところに致命的な欠点を抱えていた。
何かと正反対のところが多い2人だったと思われるが、それゆえに上手くやっていけたのだろう。

上記の2つの美点は、董允死後にはっきりと分かるのであるが、
後々に宦官の専横で衰退する蜀を、何とか留めていたのも彼の大きな功績である。
詳しいことは黄皓のところで述べてみたい。



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