■蒋 公琰
名は琬(エン)。
孔明が後継者一番手として名を挙げた人物。
荊州南部の出身で、同郷の潘濬は蒋琬の妹を娶っている。
それでいて、お互い蜀・呉で重要な職務を全うしたという事実は結構評価できる。
特に、演義で貶められてる潘濬を見直す為の話としていただきたい。
蒋琬は、諸葛亮という蜀の柱が欠けたのにも関わらず、動じることがないマイペースな人物である。
楊儀が挑発がてらに批判しても処罰することなく、逆に恥じ入らせるほど。
非常に謙虚で、まず自省から入る性格のようである。
孔明死後にも大きな変動がないのは、ひとえに蒋琬の功績と言える。
決して非戦論者でもなく、姜維・費禕とともに、魏を攻撃する計画を綿密に練っていた。
しかも、孔明が試すことのなかった、水路による攻撃。標的は長安ではなく、荊州北部の上庸。
このあたりも、蒋琬の個性なのだろうか。
彼が水路を選んだのは、諸葛亮生前の北伐での兵糧不足を考慮してのこととか。
事実、輜重隊の輸送に水路を利用するのは、官渡の折にも曹操が実行しており、
下手に長くて険しい蜀の桟道を利用するよりは、試行錯誤も不要で楽なはず。
さらに、荊州という近場を衝くことによって呉との連携を深め、
その後の戦略を有利に進めようと思ったのだろう。
荊州南部が蜀の支配下にない場合は、ジリ貧になる作戦だったのかもしれない。
帰路が困難という理由で反対する意見も多かったという。
ちなみに、このときに造船した時の木屑が呉の領地に流れ着いて、
これを見た呉の諸将が、蜀が呉を裏切るのではないかと疑念を抱いたという話が呉主伝に残っている。
そのときの孫権は、まだ冷静な思考を持っていたのだが。
この作戦のために蒋琬が漢中に駐屯してから6年…
結局、同盟国の呉が共同作戦に消極的だったことに加え、
蒋琬自身が持病を再発させたために実行されることは無かった。
次の作戦として、やはり諸葛亮同様に涼州に目をつけたが、駐留先で病死。
その時は姜維を先鋒に立て、異民族と協力するつもりだったらしい。