■陳 奉宗

名は祗。

豫州・汝南郡の出身で、蜀の司徒・許靖とは遠い親類にあたる。
幼少にして孤児になってしまっい、許靖が陳祗を引き取っている。
実質、許靖が育ての親といえるだろう。 

威厳のある容姿をしていたらしく、
二十歳で名を知られるようになると、次第に昇進していった。
さらに天文・占など多芸なため、費禕は陳祗を非常に尊重していたという。

董允の死後、その費禕が抜擢して、陳祗を劉禅の側近に任命した。
しかしながら、それほどの才能に反して媚び諂うタイプの人物で、宦官の黄皓と結託。
周知の通り、国政は次第に傾いていった。

これは明らかに費禕が見誤った形である。
姜維が軍権を握り、都から離れることが多くなると、更に陳祗・黄皓の暴政が浸透。
挙句、劉禅は亡き董允に対する恨みまで口にするようになったのだが、
それらもすべて、この2人の悪臣の所業である。
蜀が滅ぶに当たって、董允を悼まない民は居なかったという。

258年に死去したが、劉禅は痛く悲しみ、こともあろうに忠侯という諡号を贈っている。
つくづく甘えた言葉に弱かったと思わざるを得ない。


戻る