■孟 子慶

名は達。

入蜀のエピソードは、 法正張松の項を参考にしていただきたい。
正史には、孟達が劉備を迎え入れることに好意的だったかどうかにまでは触れていないが、
同郷の法正を信用して行動を共にしたと思われる。

孟達というと、冒頭にあるような援軍拒否の話がまず印象深い。
ここでは正史の記述に沿って進めてみることにする。

関羽は襄陽攻略で荊州のほぼすべての兵を動員した。
それでももう一押しと言うところで手間取っていたので、隣接する上庸の孟達に援軍を要請。
しかし、孟達は上庸の治安を理由にこれを拒否している。
結果、呉の呂蒙の攻撃もあって襄陽攻略は失敗に終わり、関羽は死亡。
呉の動きは魏と示し合わせたものである故、援軍一つで攻略が成功していたとまでは言わないが、
関羽の敗走の過程が違ってくることは確かであり、そのことが更に劉備の怒りを大きくした模様。

魏に降ってから、死ぬまでのくだりは特に説明するまでもないと思う。
分際をわきまえず言葉に甘え、後ろ盾がなくなれば保身に走り、
その挙句、人の判断を信用せずに人生を終えてしまう。
魏の文帝は孟達の才能を愛していたし、夏侯尚など親しく付き合える人物がいたのにも関わらず、
結局裏切りを重ねることになるのは、ひとえにその人間の不出来さによるもの。
周囲を疑ってるヒマがあれば、少しでも忠勤に励むべきである。
そうすればおのずと、信用を得られるのだから……


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