■孫 伯符
名は策。孫堅の長男。
後に孫権が呉を建国すると、長沙桓王を追贈されている。

194年に袁術に身を寄せ、功績を重ねる。
おそらく、孫堅の遺した軍勢を取り戻したかったのだろう。
この時、既に天下に対して大望を抱いていたはずである。
劉繇に圧迫されてる叔父の呉景を救うときに、玉璽を質に軍勢を奪還。
そのまま、袁術の皇帝僭称を機に独立することになるが、色々考えてみるとこの流れも非常に難しい。
もう少し、袁術の名の下で揚州を攻め落とし、
それから(いずれ起こるであろう)袁術の失態に乗じて独立を企てても良かったはず。
孝行心もあるのだろうが、放って置いても袁術は劉繇を弾圧する意思を持っていたので、
叔父を救う機会はいくらでもあったのである。

とはいえ、袁術の野心を見ぬきつつ、あえて玉璽を手放して離反した流れも悪くは無かった。
人心を掴み人士を重用した孫策の行動は、
中央に見放されて政治が行き届かなかった揚州に、ようやく光が射してきたかのように見えただろう。
しかしながら、揚州平定の過程で、朝廷が正式に任命している官吏を
軍事力によって多数追放したことが最終的に仇になってしまった。
最期は許貢の食客の手にかかり、死亡。

乱世に急ぎすぎた、という批評をするなら、以下の点がその理由にあたる。
たとえ無能ということが事実といえど、上に無断で強硬手段で訴えれば必要以上に怨嗟を招くのは明白。
事実、劉繇・許貢、それに王朗・華歆は全て正式に任命されて揚州に赴任していたのである。
斐松之も、許貢の食客の行動を「古の義士に並ぶ行動」と、ある種賞賛とも言える評を書いており、
袁術と袂を別ってからの孫策の行動が全て理にかなっていたとはいえない。
こういう勢力立ち上げの肝心なときに、皇帝を擁護できた曹操との差がついてしまったのは残念。
地の利があったはずの揚州だが、こういうお堅い面で地の利に見放されていたとつくづく思う。

軍才は父・孫堅譲り。
人と談笑するのを好み、また、人の意見も良く聞き入れる。
孫策伝には、孫策が一方的に誰かを忌み嫌ったという記述は、一部を除いて殆どない。
また、さして高い官職でもない身から、周瑜をはじめ、張昭・張紘ら名士・名族の類を招聘し、
呉の礎を築いた点では、贔屓目無しに曹操と互角の評価を与えられるだろう。

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