■孫 文台
名は堅。
家は代々役人の家柄。一説に、兵法家・孫子の子孫とも史書に書かれているが、真偽は定かではない。
年17のときに単身で海賊を撃退。
また、172年には既に反乱討伐を行っており、
乱世初期の英雄の中ではかなり早くから名を挙げていたと思われる。

戦に強く、黄巾の乱での戦功はかなりのもの。
ついで、西北の韓遂・辺章の乱にも従軍。
これは司空の張温が指名して参謀として招いている。
そのとき董卓も従軍していたが、軍規違反を犯しており、孫堅は董卓を処断するように張温に進言している。
進言の中に司馬穣苴の例を出しているので、
軍を率いることに関しては、かなり厳しい目を持っているといっていいだろう。

のちに董卓が権力を握ると、関東諸侯に続いて孫堅も独自に軍を展開。
董卓の孫堅へ対する畏怖、その他諸侯への対応などは孫堅伝に詳しい。
洛陽が崩壊しても落胆することなく、略奪で荒れた皇帝陵墓などを修復。
この反董卓連合軍の中で、孫堅ほど大きな働きが出来たものは居ない。

袁術と協力し合ってたのもこの連合から。
ただ、連合が瓦解すると、袁紹・袁術・公孫瓚ら連合諸侯が今度は互いに領地を巡って競い合うのを見て、
大いに嘆いたという話もあり、袁術に対する態度もなかなかに微妙である。

劉表を攻めたのは、袁術の命令。玉璽を巡る思惑が色々と描かれるが、
上記のことを踏まえれば、そのようなものが無くともこの攻撃を機に袁術から離脱していただろう。
しかし、襄陽包囲中に戦死。玉璽も含め、様々な事が謎のままになってしまった。
その後は、孫堅の兄の子・孫賁が軍勢を引き連れて袁術の庇護下に入っている。

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