■蒋 公奕

名は欽。

孫策の時から帷幕に加わっている。 その経緯は周泰の項で述べたとおり。
イマイチ地味な印象なのは、正史にも演義にも周泰ほどの大きな見せ場がなく、
また、呂蒙とともに勉学に勤めるように孫権に進められても、
大成したという記述がないからであろう。
しかしながら、その成長振りは孫権がちゃんと認めており、。
「晩学の中でも呂蒙・蒋欽ほどの成果を現したものはほかにいない」と述べているほど。

呂蒙と共に関羽を捕らえ、荊州を奪取する作戦に参加している。
ある意味で、この2人の集大成ともいえるだろう。
ところが、作戦が成功して荊州から凱旋する途上に病死してしまう。
地味な要因はまずそこにある。
後にはそれなりのポストが確約されていたはずであるから、非常に残念。

その人柄は公明正大。
徐盛は蒋欽を憎んでいたが、蒋欽は徐盛の長所を褒め称え、逆に心服させている。
そりが合わない人間を心服させるのは、並大抵では出来ることではない。
他にも、家族そろって質素倹約に努めるなど、かなり人間ができていると思わせる記述が多い。


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