■沮 授
字は不明。凄く意外だが。

元は韓馥の配下。袁紹の冀州乗っ取りの際にそのまま袁紹の幕僚になる。
軍事…特に戦略面での功績が凄まじく、官渡の戦い直前までは軍事諸事一切をほぼ一人で担っていた。
後にその権限の大きさを批判したのが郭図・逢紀ら。
軍の統率が図れずに敗北したということを責めるとすれば、官渡戦いのA級戦犯は彼らということになろう。
4,5人の重臣が口をそろえて諫言してるのを退けるのは、袁紹でなくても難しいのではないか?
曹操との決戦にたいして、急戦派と持久戦派に二分されたが、
持久戦を唱えた田豊ともども讒言の対象になってしまったのである。

繰り返し持久戦を説くも容れられず、一応官渡には従軍。
田豊が投獄されると、沮授は財産全てを家族に託してから遠征に出た。
既にこのときに敗北を予感していたはずである。
結局曹操の捕虜となり、投降を呼びかけられるも拒否して脱獄を図る。
しかし失敗して処刑された。

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