■太史 子義

名は慈。

孫策とのエピソードといい、合肥での死に際の台詞といい、演義では非常に熱く印象に残る話が多い。
演義では戦死扱いだが、正史では病死。
ただ、臨終の際の言葉は演義とほぼ類似するもの。やはり忠烈なイメージが固まる。

元は北海の周辺の出自。若い頃は学問を好んでいたが、
ある事件によって州の役所に恨まれたため、北方・遼州に隠れていたらしい。
その事件で太史慈に目をつけた孔融が、太史慈の母親を手厚くもてなしたという話もある。
後に孔融が管亥に包囲されたときに、母親の命で、過去の恩義に報いるために単騎出陣。
隣国(平原)の劉備に救援を呼びに行くことになる。
その時の包囲を突破するときの様子が、彼の機転を物語っている。

実は劉繇と同郷。
ただ、劉繇との面識は全く無く、目通りできたのは揚州に赴いてから。
たまたま、そのときに孫策が押し寄せてきて周知の展開になるわけだが、
劉繇が太史慈を任用できなかったのには、2つの理由が推測される。
一つは、劉繇と太史慈が互いを知る機会が少なすぎたこと。
もう一つは許邵の存在。このことは劉繇の項で詳しく述べたい。

もう一つ面白い話として、劉繇が逃亡した後のことがある。
孫策が周辺の制圧を行ってる隙に、太史慈は勝手に丹楊の太守を名乗り孫策に対抗。
そうしたところ、周辺の山越や異民族は、太史慈に帰属してきた。
結局孫策に敗れて配下となるに至るが、この記述の信憑性はともかくとして、
山越や異民族が、後々まで孫氏の支配に抵抗し続け、孫呉の悩みの種となっていたことも考えると、
なかなかに興味深い話である。

孫氏に帰属した後の太史慈は、荊州に睨みを効かせることになる。
その後の影が薄いのは、劉表の死よりも早い206年に病死してしまうから。
そのときは、まだ黄祖すらも生き残っており、どれほど太史慈が無念だったは量りようがない。


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