■張 儁艾
名は郃。
蜀の北伐を防ぎ続けた名将。だが、どうも他の武将に比べると影が薄い。
戦歴は長く、黄巾の乱~諸葛亮の北伐まで。驚くべきことに50年近く戦い抜いた武将。
そういう意味では、三国時代はおろか、世界史上でもなかなか稀な存在である。
廖化という、さらに長い戦歴を持つものも居るが、こちらは今ひとつ伝がはっきりしない。
信憑性も含めて考えると、やはり張郃の戦歴を特筆すべきだろう。
黄巾の乱には官軍の募兵に応じて参戦。
後に韓馥の傘下に入るが、冀州が袁紹に譲渡されると、そのまま袁紹に仕えた。
公孫瓚との戦いで一度劣勢になった袁紹は張郃にこれを防がせている。
公孫瓚自らの失態もあって袁紹が勝利したが、対公孫瓚戦における第一功労者は張郃らしい。
袁紹軍というと、どうしても顔良・文醜が目立つが、
逆にいえば、張郃が面に出ようとしない性格だったとも考えられる。
教養があって、儒者を陣幕に誘ってた、という記述からそういう推測に及ぶ。
官渡の戦いの折に、暴走軍師・郭図のおかげで曹操が引き取る事になる。
この話には諸説があるが、一応ここでは張郃を立てる。
漢中で夏侯淵が戦死した後はその軍を引き継ぎ、劉備に対抗。
彼の戦死は史実。そこにも記述内容に誤差がある。
さらに司馬懿が自らの権力のために張郃をわざと戦死させたという説まであるが、
正史には、いかに蜀の人々が張郃を憚っていたかが強調されており、
そこまで威厳のある武将を、権力欲のために戦死させるほど、当時の司馬懿が露骨とは思えない。
ちなみに、魏の蜀に対する意識はかなり凄い。対蜀の人材を見れば分かるとおりである。
司馬一族を筆頭に、張郃・郭淮・鄧艾・夏侯淵の息子たち・郝昭・陳泰・鐘会…
蜀が、魏に対してかなり攻勢に出ることが多かったためであるが、
江南の孫権が、あまり積極策に出なかったというのも原因のひとつ。
この辺りは、裏を返せば、呉に思うような侵略を許さなかった張遼たちの功績といえるかもしれない。