■張 公祺

名は魯。

五斗米道の教祖。
五斗米道は道教の始まりとも言われるほどであるが、
儒教を中心に添える後漢王朝の方針に逆らい続けたため、米賊とも呼ばれていた。
また、始祖が張魯であると勘違いされることもあるが、実際の始祖は祖父の張陵。
その頃は劉焉配下という名目だった。

後に強引な手法で漢中を占拠。独自の統治方法を行っていた。
劉焉が死ぬと実質的に独立。そのため、益州に残ってた張魯の家族は劉璋に皆殺しにされている。

統治方法は独特。そのために五斗米道と呼ばれているのだが、
実際民衆からの評判・評価はかなり高く、
漢中一帯どころか周辺の異民族も良く治めていたらしい。
兵が暴れまわり、豪族が好き勝手している益州とは大違いである。
後に曹操に降伏。
五斗米道そのものは後漢で消えたといえるだろう。
一説に、領内での布教も許されたが青洲兵の反発を受けたとも。


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