■陳 公台

名は宮。

曹操の初期の参謀。
剛直な人柄で、若い頃から、名声のある人たちとの付き合いを好んでいたという。
その一方で自ら智謀の持ち主だと自負するところがあり、
組織の中で上手く動ける人間だったかはわからない。
曹操から離反した原因は諸説あるが、呂布・張邈と手を組んだ下りは、張邈の項を参照して頂きたい。

呂布らの為に策を尽くすが、諸将との折り合いが悪かったのか、あらゆるところで讒言が入り、
さらには呂布自身の決断の遅さもあって、その策が十分に生きることは無かった。
一度主君から離れたものの立場は、非常に微妙なのだと思わせる。

ここに書くのもその一例。
下邳攻防の時のこと。
陳宮は、城の事は自分に任せて、呂布自ら曹操と野戦するように進言したことがある。
呂布もそれを受け入れようとしていたのだが、
呂布の妻が、昔、陳宮が曹操を裏切ったことを挙げて反対。
結局、この作戦は実行されなかった。結末は周知の通りである。

陳宮への信頼を貫くことが出来ない呂布も呂布だが、とにかく乱世といえど儒教社会の中国で、
一度仕えた人を裏切るということがどれだけ大変なことなのか…
こういう、あらぬところからの横やりを見ていると、やはり考えさせられるだろう。

呂布敗戦後の曹操との問答は剛直な彼らしい。
この見事さによって、彼の家族は曹操の下で厚遇された。


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