■周 公瑾
名は瑜。
人を引き寄せる魅力があったのか、下手に出ても何の邪心も見えない人物だったという。
赤壁の戦いでの副都督・程普の言からも想像できる。
孫堅が董卓討伐に向かう頃に孫策と会い、同い年ということもあって意気投合。
特別に深い交わりを結んだ。
周瑜は、孫策に自分の屋敷の一部を与えて住まわせており、
既にかなりの信頼関係が出来ていたことを窺わせる。
この時、孫策の母親にも目通りしている。
孫堅の死後、孫策が袁術から離れて劉曄を攻める途上、周瑜は私用で丹楊にいたが、
そこで偶然孫策と再会。すぐさま臣下の礼をとり、劉繇の居る曲阿まで従軍した。
劉繇を討伐(というと語弊があるが)した後は孫策の命で再び丹楊へ戻っている。
そのすぐ後、叔父が丹楊太守を罷免されたので、叔父と共に袁術のところへ向かう。
ただ、袁術からの誘いは理由をつけて断って、呉へ入って孫策軍に加入した。
孫策と周瑜、若い2人が先陣を切って戦へと向かう姿は、
当時、どこにも見当たらない勢いと華やかさが際立っていただろう。
呉では周瑜のことを「周郎」と呼んでいた…というのはあまりにも有名な話。
演義において羅貫中にピエロにされたのは、あまりに酷すぎて言い表しようが無い。
おそらく対蜀強硬派だったからかもしれないが、同盟派の魯粛の扱いも結構酷いので、
あんまり関係ないのだろう。
魯粛と同じように、益州を平定して魏に備えようという考えがあり、
益州進軍の準備を進めていたが、駐屯先で病死した。