■鐘 元常
名は繇(ヨウ)。
曹操よりも少しだけ年長であるが、曹操死後10年経っても元気だった恐ろしい爺さん。
後の智将・鐘会は彼の何人目かの子供。
驚くべきことに、鐘会が生まれたとき、鐘繇は還暦を大きく超えていた。
荀彧の推挙で、関中(主に洛陽)周辺の諸事万端を司るようになる。
張既を見出したのもこの人。
洛陽以西の外交・政治のスペシャリストで、血の気の多い涼州人を手なずけていた。
官渡の戦いの際には、馬騰を袁紹に敵対させることに成功。
さらに良馬数千頭を曹操に送り届けたので、その功を前漢の功臣・簫何に準えて称えられている。
荒れ果てた関中を、馬騰・韓遂を相手にしつつ復興していった功績は計り知れない。
魏公国が出来たときに相国に就いたのも当然であろう。
また、書家としても有名。結構多才な一面がある。
王羲子親子が出るまでは、楷書流布の第一人者と言われていた。
もっとも、その才を公のものとして認められたのも、曹操の政策おかげ。
儒の影響下では、やはり目立たないままに終わっていたと思われる。
彼自身は野心家ではないのだが、一番優秀な息子の鐘会はなんとも言えぬ野心家。
実は、こういう困った例は枚挙に暇がない。
呉の孫静の曾孫・孫峻とか、諸葛瑾の息子・諸葛格とか…