■鐘 士季

名は会。

魏の重臣・鐘繇の子。
母に英才教育を受け、その影響もあって母を称える論文まで書いていたらしい。
その教育方針は私たちも見習っていいかもしれない。
「一気に物事を覚えようとすると後で飽きたりするので、少しずつ覚えさせるのが良い」
というもの。

さて、その鐘会。
実は幼少のころに、人物鑑定で定評のあった蒋済によってお墨がつけられている。
そのこともあって、安心してのんびりとした教育を施したのかもしれない。
なに不自由なく育てられたのだろうから、少々傲慢で話に乗りやすい性格になってしまった模様。
優柔不断なところを取り除いた袁紹に近い印象がある。

蜀滅亡後、姜維とともに司馬昭に反乱をしようとしたが結局失敗。
反乱の邪魔になると考えて、強制的に閉じ込めた兵たちによって殺されている。
その兵を解放したのは、ほかでもない自分の部下。
案外、自分が配下からそれほど信頼されていないことを自覚していたのかもしれないが、
それを承知で反乱を起こそうとするあたり、人の和をなんとも思わない人間だったのだろう。
自制と自省が足りなくて滅んでしまったのは、自業自得としか言いようがない。

鄧艾・鐘会・姜維の一連の話を見ると、司馬昭が何枚も上手であったことが目に見えてくる。
各方面にバランスの良い視野と包容力を持つことが、上に立つのに肝要な条件と言える。


戻る