■劉 子揚
名は曄。
皇室の血縁にあるという。
曹操に仕えたのは197年頃とあるので、それほど遅いわけではない。
だが、曹操の謀臣を赤壁前後で新旧に分ければ、劉曄や蒋済らは新世代幕僚という分類になる。
7歳のとき聞いた母親の遺言を13歳の時に実行。
その遺言は、「あなたの父の側近は奸臣だから、いつ不幸が訪れるか心配だ」という類のもの。
結果、その側近は若き劉曄の手で斬殺される。恐ろしく勇気と決断力に富む人物である。
皇族の血筋でありながら…と思われるかもしれないが、
古今東西どこを見ても、本当に歴史に残る偉業を達成した皇帝というのは、
皆多かれ少なかれ劉曄の様な一面を見せている。
皇族として、もっと中央に近い位置に居たら…と思うと、色々面白い。
演義では官渡で投石車を発明。
徐々に重用されて、最後には蜀討伐の軍師にまで任命されたりしているが、
正史に拠れば、晩年になってちょっと哀れな末路を送ってしまった人。
曹叡の意見に面従はしていたが、その裏の謀は決してもらさず、誰にも知られないようにしていた。
曹操に仕えたときのエピソードからも分かるが、これが彼の信念だったと思われる。
結局この表裏の不一致が諫言に遭って、徐々に曹叡に疎まれるようになり、発狂して死亡。
曹操は劉曄の考えを理解し、その性質を十分に長所と見ることが出来たのだが、
その孫の曹叡にはそれが出来なかった…案外、そう考えることが出来るかもしれない。
臣下の器量と君主の器量。両面を再考させてくれる話である。
あと、裏表の使い分けも当然重要…裏表が無いほうがいいというのは無理な話である。