■劉 正礼

名は繇。

揚州に赴任したものの、袁術を恐れて州都には赴かなかった人物。
しかも任地では孫策に散散に破れ、さらに南方に逃れるも病死…晩年の悲惨さは結構なもの。
そんな行動が軟弱なイメージを強烈に印象付けてしまったのだろう。
演義ではなんとも弱弱しい存在にされてしまっているが、
見ようによっては、ただ運に見放されただけともいえる。

太史慈の項でも書いたとおり、劉曄は太史慈を任用することが出来なかった。
しかしながら、そればかりを批判の対象とするのは、時代背景を無視したおかしな話。
ここでは劉繇が太史慈を任用できなかった理由について
ちょっと変わった方向から考えて見たい。

まず一つに、劉繇自身が太史慈を良く知る機会が少なすぎたこと。
配下になる以前の面識が全く無い人物を、指揮官に抜擢するという考えが出来なくても無理は無い。
正史でもそういう行動を取ったのは、曹操などごく一部の人間のみ。
龐統や蒋琬でも、劉備に使えた当初は地方官吏から始まってるのである。

もう一つは、人物評で有名な許邵の存在。
正史では、「『(中央であまり知られていない)太史慈を抜擢したら許邵に笑われるのではないか』
と、心中不安になったため劉曄は太史慈を使えなかった」…とある。
特定の人の評価を気にするというのは現代では俄かに信じがたい話ではあるが、
当時において許邵の名声・権威というのはある意味で一国の宰相などより遙かに重く、
彼のおかげで昇進できた者や彼のために不遇を囲ったものは数知れず。
前者では曹操、後者では許靖が有名であるが、
とにかく許邵に悪い意味で目をつけられた場合、士大夫としての劉繇の人生は終わったに等しくなる。
つまりそれは(揚州刺史という)官位を追われるということだけでなく、
後の官位も期待することが出来ず、生活すらも危うくなるだろう。
幼少のときから積み上げたものが、判断一つであっという間に瓦解するのである。
孫策の勢力がそれほど大きくなかった時の劉繇としては、目の前の戦よりも一大事ということになろう。
まして、そのときの劉繇はそれほど老年というわけでもない。
彼の器量云々よりも、許邵という人物が、それほどまでに大きな存在だったと思って欲しい。

許邵について…というか、人物評価そのものに対する批評は正史の中でも枚挙に暇が無い。
ここで書いたのは、あくまでその一面である。



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