■劉 子初

名は巴。

劉備の臣下としてのエピソードが多いが、劉備に仕える前の紆余曲折のほうが面白かったりする人。

父・劉祥が劉表に嫌われていたため、劉巴自身も劉表に殺害されそうになっている。
そのやり口が実に劉表らしくあからさまなもので、荊州の士人が彼に心服しなかったのも頷ける。
詳しい話は割愛するが、零陵の名士として、劉巴の一族は結構影響力を持ってた模様。

後に曹操が荊州を治めるようになると招聘を受けて、
長沙をはじめ、荊州南部諸郡の降伏勧告の使者として派遣される。
しかし折悪しく荊州南部が劉備の手に落ち、復命することが困難になったので、南方の交州へ逃れた。
そのまま劉備に仕えるのを良しとしなかったあたり、非常に彼らしい。
その経緯・心情は、劉巴が諸葛亮に宛てた手紙に詳しい。

交州に入ったあとは士燮の元に赴くが、士燮と意見が合わずに出奔。
蜀に入り劉璋の賓客として招かれるに至る。
一説には、劉巴の父が劉璋の父・劉焉を推薦したことがあるので、
劉璋は劉巴が来たことを非常に喜んだとか。

劉備の入蜀の際には、他の群臣とともに猛反対。
意見が容れられぬと見るや、病気と称して引篭もってしまった。
張飛とのエピソードといい、心構えが非常に高い位置にある。

このように劉巴は劉備を避けて回っていたが、劉備は非常に劉巴を尊重していたらしく、
成都攻撃の際には、劉巴を殺害したものは極刑に処する旨を布告したという説があるほど。
入蜀後は、法正の後任の尚書令に任命するほど重用している。



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