■劉 元穎

名は馥。

正史の名地方官だが、演義ではただの斬られ役。
正史では曹魏名地方官の伝と思われる「劉司馬梁張温賈伝」の筆頭。
特に最初の三人(劉馥・司馬朗・梁習)の治績は凄まじいので、
本を手にとって見てみるのも良いと思う。

劉馥は当初戦乱を逃れて揚州に居たが、袁術が揚州で暴政を始めるようになると、
袁術配下の武将を説得して、共に曹操に帰順した。
後に廬江で袁術の残党が跋扈し、淮南周辺が荒れたため、曹操によって揚州刺史に任命された。
劉馥は空城となった合肥で政庁を整備。賊を手なずけ、献上品を得るなどの成果をたちまち現した。

後、次第に彼の恩恵教化が広く知れ渡り、その上付近の荒廃も手伝って、流民は次々に集まった。
劉馥は学校設立に城壁改修・堤防開削、そして屯田の整備などで城の内外を充実させ、
わずか数年で合肥を淮南一の軍事拠点へと確立。
「賊を治めつつ内外を充実させた」という点が、司馬朗すらも及ばない所。
惜しくも孫権の最初の合肥来襲の前に病没したが、
住人全てが劉馥の常日頃の令に従って協力し合い、孫権を撃退させた。
その合肥も、後に満寵の進言によって移転することになるが、
劉馥の考え云々より、もともと空城になってた合肥城砦の位置が悪かったのだろう。

なお、ゲームには出てこないが、子の劉靖も南北で地方官吏を勤め、
特に北方では対異民族の国境守備体制を確立。
やはり劉馥と同じように堤防を開削するなどして、大いに恩恵を施したと書かれている。



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