■劉 君郎
名は焉。
劉璋の父。
演義に見られるような、幽州太守という肩書きは正史には存在しない。
名門の出で徳も高いという評判のもと、各地の刺史や太守および要職を歴任。
後に、「益州に天子の気がある」という占いを信じて益州入りしたという。
しかしながら益州入りは楽な道程とは言えず、その際に自分の息子2人を長安に残している。
益州でも難題が多かったが、従事の賈龍らの活躍で何とか州を固めるに至った。
その後も安泰とはいえなかった。
当初から中央を見捨てていた劉焉は、独立志向が非常に強く、そのことで側近の賈龍と激しく対立。
挙句、賈龍は董卓の支持を得て劉焉に叛旗を翻してしまう。
反乱は収められたが、人質の息子は処刑され、トドメに州都が落雷で焼失。
精神的ショックが重なり、病気の為に死亡してしまった。
この人も、曹休とおなじく背中に腫瘍が出来ている。やはり、病名が気になるところ……
劉焉の切り札は「東州兵」。
益州入りの前に、宛近辺で徴発した精強な部隊である。
この東州兵が劉焉政権を支えたが、劉璋に代替わりしてから奔放に暮らすようになり、
締め付けが無いのをいいことに徐々に蜀の治安を悪化させていったのだが、
その責任は、州の基盤を固めきらずに中央に逆らった劉焉にもある。