■廬 子幹
名は植。
蔡邕・鄭玄らと並ぶ後漢末の博士。
兵書・経書などを色々な人に教えていた。その中に劉備・公孫瓚らがいる。
一度九江の太守に就いているが病のため辞し、黄巾の乱の時に中央へ。
張角討伐に司令官として赴くも、敗北して罷免された。
董卓が政権を握った時は、少帝の廃位に激しく反対し、危うく処刑されるところだったらしい。
その後に病と老齢を理由に隠棲し、そのまま死亡した。
清流派士人であり、かなり節義が高く、いい加減な付き合いを良しとしなかったとある。
その真面目さゆえに人と迎合せずにたびたび衝突することもあったとか。
廬植をはじめ、後漢末の士人の多くは董卓らの政争の際に亡くなっており、なんとも憐れな感じがする。
国の行く末を案じながら死ぬのは、ものすごくさびしいことだろう。