■陸 伯言

名は遜。
元の名は議。

夷陵の戦いで劉備に大ダメージを与えるので、知らない人は居ない、といってもいいぐらい。
その後は順調に昇進し、立場的には、蜀の諸葛亮や魏の司馬懿と同格と考えられる。
しかしながら、派手な活躍が見られず、荊州や合肥を攻めては途中で撤退…というパターンが多い。
孫呉の方針や、家臣団の問題もあったのだろうが、
一国を支えた武将としては少々もの寂しい気がしないでもない。

顧雍の長男・顧邵とは義兄弟の間柄。
2人とも孫策の娘を娶っている。
また、顧雍も陸遜の同族である陸績の姪を娶っているので、陸遜とは遠いながらも親戚となる。
呉の名族同士の結束はこのようにして保たれていたのだろう。
冷たい考えになるが、政略的には、陸遜と顧邵の両方に孫策の娘を娶らせ、
さらに顧雍・陸遜が続けて丞相に昇進したことによって、孫氏の基盤はかなり固くなったと思われる。
文武諸官を統率する地道な苦労が垣間見える話である。

演義には書かれていないが、晩年に惑乱た孫権の為に陸遜の人生は悲惨な結末を迎える。
孫権が皇太子・孫和をないがしろにし、魯王・孫覇を寵愛したためである。
この皇太子派と魯王派の争いは、後世の史家が「袁紹より酷い」と断言するほど泥沼化。
陸遜をはじめ、呉粲・朱拠・顧譚・顧承・張休らが巻き添えとなる形で死亡している。

ただ、晩年の後継者争いは、彼にも少し責任があるのかもしれない。
丞相に任命されても、前線から下がることなく、
国政のことは自分が任命した他のものに任せきりだったという。
あるいは、そこまでせざるを得なかった三国の情勢が彼にとって一番の不運だったのか…
呂壱の件で孫権が身近なものの讒言に弱いという事が認識できたはずなのだが、
なんにせよ、三国全ての丞相・宰相の中で、陸遜ほど気の毒な終焉を迎えた人間は居ない。
有能な人間が中央から離れてしまってる間に、国政が大変なことになるのは
劉禅と姜維の状態と全く同じである。

余談だが、彼の孫の陸機、陸雲は中国文学界などでは、割と有名人である。
政争に巻き込まれて殺されてしまうのだが。



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