■李 曼成
名は典。
演義では前触れもなく登場しなくなるが、実際、享年36。
合肥の戦いの後、程なくして死亡したものと思われる。
演義で徐庶や諸葛亮の火計を見抜いたことと、
合肥で張遼と協力したことで、寿命ほどに影が薄くないかもしれない。
で、その合肥の話だが。
演義でな張遼が「国家の大事云々…」と活を入れて李典たちを感銘させている。
しかし正史によると、孫権が来襲した時、李典が張遼に対して
「国家のことであるので自分の私情から、張遼の計略を否定したりはしない」
と発言し、楽進も納得。協力して計略を用い、孫権に奇襲をかけて大いに打ち破ったという。
張遼自身は、国家の大事とはいえども、日ごろ不仲な3人(李典・楽進・張遼)が
協力できるかどうか不安だったという話もある。
孫権への対抗策は、事前に曹操が張遼に託しておいてらしい。
李典たちが、呂布のもとから降伏してきた張遼が太守として任命されてるのを不満としている…
というのが演義の記述だが、実際の李典の人柄はかなりのもの。
儒学を好み、学者達にも謙虚な態度で接し、軍中でその長者振りを称えないものはいなかったという。
もともと人と争うのを良しとせず、軍事に携わるのも成り行きに近かった。
それでも、張遼が大事を前にして懸念するほどなので、
この二人はかなり折り合いが悪かったと思われる。
博望波の戦いが演義の創作であることが、李典の伝でも分かる。
夏侯惇をおびき寄せて火攻めにしようという作戦は、劉備たちが自分で考えて実行したらしい。