■李 正方

名は厳。

元は劉璋の配下で、外戚でもある。
益州では、あの費氏とともに大いなる影響力を持っていた。

劉璋は、劉備に対する防衛の為に李厳を派遣したが、それは外戚ゆえに期待してのこと。
しかし、李厳はあっさりと降伏し道案内まで買って出る始末。
この時点で既に利害にとらわれやすい人格が出ている。

入蜀後は法正らと法律まで定め、文武の重鎮として活躍。
仮に李氏・費氏を代表とする益州派閥というものがあったとすれば、
李厳はそれを活用して、政権に取り入ったということになるかもしれない。
あるいは、蜀の安定のために利用されたか…
こういう手法はどこでも見受けられるので、推察は容易であるが、
李厳に関して言えば、史書には明確な記述が無い。
実力も備わっているので、不安定な状態の初期劉備政権にはうってつけともいえたはずである。

ただしその末路は、影響力をカサに着る現代の腐れ政治家のそれと同様。
自らの不始末を隠蔽し、八方に偽の伝令・文書を放ち、自軍を大いに撹乱。
結局、隠し切れずに諸葛亮によって庶民に落とされている。
諸葛亮にしてはこの処罰はやさしいとか色々と騒がれているが、
その辺の推察から、前述のような劉備政権の複雑な構造を垣間見ている人も少なくない。
実際、各地を流れてきた劉備が人材をまとめるのには、かなりの苦労が要った事だろう。

諸葛亮の訃報を聞くと、落胆して発病。程なくして病死した。
後任の者では、自分を復帰させてくれないと悟っていたという。
どういう根拠からかはまったく分からない。



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