■満 伯寧

名は寵。

汝南や寿春方面で活躍した武将。程昱並に身長が高かったという記述が正史にある。
演義で思いっきり文官扱いされてるが、一応武官だと私は思う。
生きてるうちに征東将軍から太尉にまで昇進したかなりのやり手。

黄巾の乱の拠点だったこともあり、汝南は反乱の絶えない地方だが、
満寵は僅かな手勢で、数百という敵の砦を撃破。そのこと如くを鎮圧したらしい。
揚州都督の時には孫権軍と幾度と無く対峙。
敵の計略を端から看破したので、孫権は思うような動きが取れなかった。
さらに、合肥に孫権がたびたび攻め寄せてくるのは、城塞の位置に問題があると言い、
合肥新城の建設を進言。反対意見もあったが、曹叡は満寵の意見を容れた。
234年の孫権軍は、この新城のために進軍すらままならず、火計によって大敗を喫している。
滅亡まで含めて呉を封じ込めた功労者を上げるとしたら、劉馥・張遼、そしてこの満寵であろう。

地味な人物だったのは多分間違いない。
ただ、部下に自分の給与を分け与えていたのか、
死後に彼の家を見たところ、遺産らしい遺産は全くなかったという。武将の鏡といえる。


戻る