■甘 興覇
名は寧。
字(あざな)がなんともかっこいい武将である。
その活躍も、なかなかに立派。太史慈亡き後の、武の要となる。
孫権に仕える前に、一度蜀郡で官位についていたりするので、
若いころから、何か期待させるものがあったのかもしれない。
もっとも、すぐに官位を捨てて、無頼のものを集めて20年余り暴れまわっていたらしい。
実は、その益州時代のことについて、正史・蜀書劉焉伝の注釈に、面白いことが書いてある。
斐松之の注釈による「英雄記」に縁ると以下のとおり。
益州の統治者である劉焉が死去した後、敵対関係にあった長安から、攻撃があった。
それに呼応して、荊州別駕の劉闔をはじめ、劉璋配下の武将数名が反逆。
その反逆した武将の中に、甘寧の名がある。
結局この反乱は失敗し、甘寧らは荊州に逃げる羽目になるが、
この話に従うならば、甘寧は、劉焉の配下として益州に属していたことになるだろう。
さらに、この反乱が成功していたのならば、群雄として甘寧の名を見ることが出来たのかもしれない。
この記事の信憑性は微妙だが、いずれにせよ、益州の荒廃は、このとき既に始まっていたのである。
後に甘寧が孫権に仕えたとき、孫権に益州を支配するよう勧めたというが、
これも、もともと益州に居て、乱れ行く様を目の当たりにしているのならば、至極当然の進言と言える。
荊州に入ってからは演義・正史共に記述の差はない。
気になるのは黄祖の存在くらいだが、そのことは黄祖の項で考える。
侠気のある人物で、少ないの兵力で大軍を圧倒するのが得意。
関羽でさえも、甘寧の名を聞いて軍を戻したことがあるらしい。
ある本で、「蜀で言う張飛のような人物」と書かれていたが、結構違う面が多い。
確かに、大小問わず失敗をした人間の命は保証できなかったが、
少なくとも、むやみに罰したりすることはなかったらしく、八つ当たりと思われる行動は見えない。
また、配下の兵は基本的に大事にしており、
物惜しみすることなく財貨や物品を分け合っていたため、部下からの信頼は非常に厚い。
思うに、君主の為に命がけで働けるものを、常日頃から集めていたのではないだろうか。
演義では夷陵で戦死したことになっているが、実際は謎。220年を過ぎた頃に病死したものと思われる。