■郝 伯道
名は昭。
若い頃から賊討伐などで涼州・雍州方面で奮戦していた。
「陳倉の戦い」での激しい攻防で、目を引かれないものはいないはず。
正史にもその様子は詳しく書かれており、史書に残る戦の詳細の中でも、かなり心躍る部類に入る。
陳倉の守備に就いたのは曹真の推挙。
そして彼の狙い通りに蜀を撃退。やはり曹真の大局観は侮れない。
郝昭は、孔明を退けた功で列侯に封じられ、その後間もなく死亡。
演義では、蜀が20日間にわたって陳倉を攻め立て一度撤退。
郝昭の病状を聞いて、すぐさま再攻撃に出ているが、
実際にはもともとの兵糧不足で再攻撃どころでは無かったらしい。
この流れは、張郃によって正確に読まれていたりもする。
遺言も武将らしく立派なもの。葬儀は簡素に行い、子供らには好きなところに遺体を葬るように指示。
死者に魂などないという信念を持ってたようだが、
この時代、死者に対する考え方は現代の宗教など比べ物にならないほど非常に多種多様。
その中でも郝昭の遺言はかなり潔いものに思う。
ついでに書くと、一番醜いのは袁尚と袁紹婦人。
史書の記述から目をそらしたくなるほどである。