■郭 奉孝
名は嘉。
若いときから隠棲しており、その人物を知ってる人は殆どいなかった。
おそらく、出身地の穎川の士人くらいしか交流が無かったのかもしれない。
最初に袁紹に目通りしたのも、その狭い狭い交流の流れとみていいだろう。
結局、袁紹の幕僚で、穎川出身の郭図らに「袁紹は機を見る力がない」と言い残して去っている。
その後、やはり同郷の荀彧の招きで、曹操の元へ。
登用されて、司空軍祭酒に抜擢された。
「司空軍」とは曹操の率いる軍。「祭酒」は属官の筆頭格、という意味である。
荀攸同様、初めから軍事に重きを成すべく期待されてた模様。
しかし、陳羣は郭嘉の定まらない品行が何かと気に障ったらしく、
ことあるごとに朝廷に提訴していたという記述もある。当の郭嘉は全く意に介してなかったようだが。
こういったところから伺うと、参謀でありながらどこか飄々とした人物だったのかもしれない。
郭嘉の言を追うと、相手の性格や置かれた状況を最優先に考えてから、戦略を挙げるパターンが多い。
初対面の袁紹や曹操の性質に対しても、まったく同様の発言をしているので、
どうやら、人や勢力の分析から、あらゆる手段を講じるのを得意としていた模様。
この読みは非常に的確で、呂布・袁紹と順調に滅ぼし、烏丸の征討まで進めていったが、
袁氏を滅亡に追い込んだのと引き換えになる形で、病死してしまう。
享年38。そのあまりに早すぎる死を曹操はかなり歎いていた。
曹操より一回り以上も若いのに、死んだのは曹操よりも12年前…
ちなみに、郭嘉の早世は、定まらない品行が生んだ自業自得との説(というかほぼ真実)がある。
そんなわけで、三国志Ⅹでは彼に「酒豪」の特技が加わってしまった。
ところで。
正史に残る曹操から荀彧に当てた手紙の中で、「中庸」という言葉が郭嘉の評として出てくる。
郭嘉の言動や、その他様々なところから考えてみると、
我々日本人が使う「中庸」というのがいかに間違った意味かも推測できる。
一方的な価値観などにとらわれない、全体視野に基づく究極のバランス感覚…
安易な「安定感」などでは到底追いつけないものを「中庸」と指すのだろう。