■賈 梁道
名は逵(キ)。元の名は衢(ク)。
曹操の葬儀を取り仕切った人物。
家が没落したこと以外は、子供時代にやってることは魯粛と似ていたりする。
父が死んでなかったら、「賈氏に気違いが生まれた」などといわれていたかもしれない。
剛直な人物で、曹休とはもともと相性が悪かったらしい。
彼の剛直さ…というか、意志の強さを顕すエピソードは他にもある。
人と共同で仕事にあたった際、怒りのあまり額に瘤(コブ)が出来たらしい。
丞相主簿の官の時のこと、賈逵はその瘤が気に入らず、手術する旨を曹操に伝えた。
曹操は「瘤を手術したものは9割が失敗して死ぬと聞く。
主簿(賈逵)には悪いが、それを許可することは出来ない」と、反対した。
しかしながら、結局賈逵は手術を敢行。やはり治らず、瘤はますます大きくなったらしい。
演義ではそれほどの出番もないが、正史では行政部門で立派に活躍している。
機知に富み、祖父のおかげで兵法にも通じている。
予州刺史の時に仕事振りを認められ、魏帝・曹丕は、彼を見習うよう各州の長官に伝えている。
また、その間に運河を何個も開通させた。
この運河によって、内政の充実と対呉政策の有利性が生まれたといわれており、
前後の活躍等も含めると、文帝時代の賈逵の功績はかなり大きかったといえる。
周魴の偽投降を見破った後には、曹休の病死のみが伝えられるが、
実はその年(228年)のうちに賈逵自身も病没している。
55歳と言うのは、当時としては平均的ではあるかもしれないが、やはり短く、残念に感じてしまう。
関羽同様、彼を祀った廟が存在する。賈逵の死後に、住民らによって作られた。
彼の施政の偉大さを物語っている。