■歩 子山
名は騭(シツ)。
演義では江南に弁舌を振るいにきた孔明に対して反論し、逆に言い負かされるだけの役割。
呉でもそれなりの人間が、演義に出てこないのはまずいと考えたのか、すっごく強引な出され方である。
出さないほうがマシ。
正史を追うと、文官よりもむしろ武官というイメージにも近くなる。魏で言えば満寵あたりに近い。
諸葛瑾・厳畯との仲は
厳畯の項でも述べたとおり。
ただ張昭とは不仲だったらしい。
厳畯を張昭が推挙した話と比べると、対照的である。
苦労人で、戦乱を嫌って南下し、生計を苦心する傍らで勉学に励んでいる。
孫権に仕えてからの活躍の場は主に揚州・交州(荊州南部の更に南)方面。
魏・蜀とあたっているときに背後を突かれないために交州一帯を任されるほどの人物で、
呉巨(劉備が長坂の戦いの後で頼ろうとした人物)を斬り、士燮を重用。
毎年貢物を納めさせるなど、蜀で言う李恢のような役割もしている。
冷静沈着で、陸遜の後継の丞相に任命された。