■潘 承明
名は濬。
演義を読んだことのある人には、潘濬という人物は、
「関羽の下を離れて孫権に仕えた裏切り者」という印象が強いかもしれない。
正史の潘濬は、劉備に仕える前も孫権に仕えた後も、法を遵守し、
悪辣なものには断固として立ち向かう名臣としての扱いが目立つ。
実際、正史の潘濬伝はあの陸凱と同列。以前から孫権に仕えていたものより、かなり上である。
また、内政よりも軍事的記述が目立つ。
陸遜と共に、荊州の軍事全般を担いつつ、孫権の相談役兼諌め役をしていた。
この辺りが、陸凱と伝を並べられてる理由かもしれない。
はじめ劉表に招かれ、統治手腕が評判となった。
劉備時代の記述は少ないが、ずっと荊州に居た模様。
荊州が孫権の支配下に移ると、諸将が孫権に目通りするなか一人引篭もり、
寝たまま無理やり孫権の前に連れてこられたらしい。
孫権の説得を受け、以後重鎮として活躍するほどになる。
呂壱が孫権の寵愛を利用し、丞相の顧雍を失脚させようとしたとき、
後任の丞相が潘濬になるのではないかと恐れ、結局顧雍の件をうやむやにしたこともある。
それほど呉での名声は高く、恐れられていた。
呂壱は信頼をカサにきる悪臣で、たびたび重臣を讒言。呉の政局を混乱に陥れたのだが、
後に呂壱が誅殺されたのも、殆ど潘濬の働きである。
蒋琬の項にも記載したが、潘濬の妻は蜀の蒋琬の妹。
このことで潘濬を讒言するものも居たが、孫権の信頼は崩れなかった。
239年に死去しているが、長生きしていれば、ほぼ間違いなく丞相となっていただろう。