■于 文則
名は禁。
鮑信配下だったが、兗州が青州黄巾党によって攻められた折に鮑信が戦死。
そのまま援軍に来た曹操の配下に加わる。
于禁というと、龐徳と比べて覚える人が多いだろう。
劉備・関羽・張飛の死にも繋がっていく一連の出来事ので、案外説明不要なのかも。
正史の于禁を見ると、張遼・楽進・張郃・徐晃と伝が同じであり、
当時の名将といえば、まずはこの5人だと書かれている。
性格的には5人の中で一番頑固であり、賞罰を厳格に守った。
しかし融通が利かない印象が配下や民衆に強かったのか、
曹操には重用されていたものの、人望はなかったらしい。
張遼あたりと比べると、さしずめ前漢の名将、李広と程不識の話を見ているようである。