■王 仲宣

名は粲(サン)。

戦乱を嫌い荊州に入り劉表の賓客として末席にいたが、曹操に降るにあたりその配下に。
その直後に孔融は処刑されているので、後世では建安七士の筆頭格と言われるほどになる。

劉表の下に居た際は、風采が上がらなかったせいで縁談まで破棄されるほどの冷遇ぶりだが、
曹操に降ってからは人生が一変。後漢の大学者・蔡邕に見込まれた才も存分に発揮し、
若いながらも魏国の制度新設の際には主宰を一任されるほど。
記憶力もよく、乱れた碁盤の石を正確に並べ直したという話は、耳にしたことがある方も居るだろう。
算術にも優れていたとあり、劉表の見る目のなさと人物の不出来具合が目に浮かぶようである。

10代のときに、師・蔡邕の仲介で司徒にお目通りしてたり、名士・士孫瑞と親しくしてたり、
そうかと思えば、30~40代の時にはその文才の為に曹植と親しく……
41年という短い人生の割に交流の年代幅が非常に広い、少し風変わりな人物である。
217年に流行した疫病のために病死。


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