■王 伯輿

名は基。

最初、青州刺史・王淩の属官として、青州の治績を大きく挙げた。
王基を巡っての王淩と王朗の取り合いが史書に残るほどなので、
政治手腕はかなりのものがあったと思わせる。清潔厳格な手法が評判になったと描かれている。

様々な功績を追えば、西の郭淮・東の王基という評価も出来る。
働きの内容には差があるが、反乱続きの東の国難を良く押さえ、
曹爽・司馬師・司馬昭ら権力者を諌めて軍事のみに走らせなかったのは大きい。
彼の著書である「時要論」は、曹爽の政治を指弾するための著書らしい。

官位についたり離れたりの繰り返しだったが、
毋丘倹・文欽の反乱の辺りから一気に昇進していく。
毋丘倹・文欽の乱と諸葛誕の乱で功績があり、征東将軍まで官位が上った。
死後に司空の位を追贈されている。

また、前任者たち(王淩・毋丘倹・諸葛誕)と違い、司馬氏に対しても真摯に自分の考えを伝えたため
その孫も晋の恩恵を受けている。

王基は幼少にして孤児となり、叔父の家で育てられたが、孝行が評判となったらしい。
出世してから、上奏して叔父の子に爵位を与えたこと、
そして、わざわざ朝廷が王基の母親の訃報を隠したことなどからも、忠孝心に厚い人物だったと伺える。


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